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室町時代、応仁の乱で大活躍した悪党「骨皮道賢」が残した6日間の武勇伝

室町時代、応仁の乱で大活躍した悪党「骨皮道賢」が残した6日間の武勇伝:2ページ目

次に名前の「道賢」について、史料によっては「骨河道賢入道」とあり、仏心のいかんはともかく、形だけでも出家した(頭を丸めた)事によって元の俗名「みちかた?」から、法名「どうけん」と呼ばれるようになったことが推察されます。

(※現代でも、名前の漢字は俗名のまま、音読みで法名とする事例が多くあります)

ちなみに漢字表記の「ゆれ」ですが、史料によって骨「河」だったり、道「見」、道「元」、道「源」だったり様々ですが、これも道賢が各地で暴れ回った事により、「ホネカワドーケン」という悪名が口伝えに拡散したためと言えます。

つまり、より多く人口に膾炙されたゆえの誤字表記であり、道賢の武勇を裏付ける証左と解釈することもできるでしょう。

いずれにしても、道賢が貧しい暮らしをしてきたことが察せられ、故郷で食い詰めて京都に出て来たものと考えられます。

名所司代・多賀高忠との出会い

……さて、食いつなぐため京の都に出て来た道賢は、後に室町幕府の侍所所司代(さむらいどころしょしだい)である多賀豊後守(たが ぶんごのかみ)こと新左衛門高忠(しんざえもんたかただ)に目付として取り立てられるまでは、悪党として京都内外で暴れ回っていたことが推測されます。

「獄吏の下に居り、よく盗賊の挙止を知る者を、目付と号す。その党魁(とうかい)名は道元(賢)……」

※東福寺の禅僧・雲泉太極の日記『碧山日録』応仁ニ1468年3月15日条より。

目付(めつけ)とは文字通り「目を付ける=監視役」を意味し、主に武士たちや悪党らの(もちろん庶民も)動向を監視、謀叛や犯罪の兆候があればそれを報告する職務。

自身が悪党であった(であろう)道賢は「昔取った杵柄」として、長く培った独特の「嗅覚」を見込まれたのでしょう。

(※現代でも、元空き巣や犯罪者が警察に協力し、防犯アドバイザー的な役割を担うことがあるのと似たようなものです)

また、道賢が仕えた高忠は文武両道の人徳者、仁義をわきまえ公明正大な職務態度で「名所司代」として知られました。

赴任した直後に(前任者が手こずっていたであろう)土一揆をたちまち鎮圧したかと思えば、生活に困窮する者がいればこれを助け、捕らえた悪党の中に才ある者を見出せば、罪を赦して召し抱え、世の役に立てるなど、その声望が偲ばれるエピソードが数多く残っています。

もしかしたら、道賢もかつて高忠に捕らわれながらも赦され、その漢気に心服した一人なのかも知れません。

なんだか人格者を慕って集結する好漢たちの物語『水滸伝』みたいですね。

3ページ目 勃発した応仁の乱、高忠との訣別

 

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