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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話:3ページ目

胸の奥をぎゅっと、鷲掴みにされるような思いがした。

豊国の最期の病床で、「俺の名跡を継げ」と口約束で託されたのは国貞だった。

しかし葬式の後、実際に二代目豊国を継いだのは国貞ではなく、元々豊国と養子縁組をしていた国重という兄弟子だった。道理とはいえ、誰よりも豊国を敬愛し追随してきた国貞は、結局豊国にはなれなかったのである。

(国貞兄さんほどの人でも、苦い思いを抱えて生きている・・・・・・)

初めは劣情で沸騰した血も、だんだん遠ざかる国貞の痛々しいまでの乱痴気ぶりを見るほどに切なくなり、いつの間にかしんと静かになった。

顔を上げると、空が錦絵の吹きぼかしのように滲んで、ひどく綺麗だった。

 

・・・・・・

「なあ、あの空の上には、よっぽど腕の良い摺り師がいるんだろうな」

隣で地面に品を並べている豆売りの親父に、国芳は話すともなく話しかけた。親父は聞いているのかいないのか、黙って豆を弄っている。

「だってよ、そうでなきゃ、こんな綺麗な色が擦れるわきゃねえもんな。・・・・・・」

空の上にいるとてつもなく大きな人間が、とてつもなく小さなこの江戸の町を見下ろしていて、その中でこまねずみが回るように忙しなくくるくる泣いたり喚いたりしている国芳たちを笑っているような気がした。

「ナア、悔しいなア、誰かがわっちらの事ォ笑ってやがる」・・・・・・

ふいに、目から涙がころりと転げ落ちた。

(チクショウ、チクショウ、チクショウ。・・・・・・)

両国橋の雑踏の中央で、国芳は泣いた。

誰しもが思い通りに活躍できて何もかも上手くいく。

そんな世の中がここではないどこかにあるかもしれないと、小さな頃からずっと思っていた。

紺屋でないどこか。

豊国の門下ではないどこか。

もしかすると、江戸でないどこか。

逃げても逃げても、辿り着く先々でここでもない、ここでもないと逃げ続けた。

しかしその繰り返しの中で国芳はもうとっくに、分かっている。

本当は、他のどこかでは意味がないのだと。

この江戸でなければ、意味などない。江戸という都は、陰翳(かげ)も差せば饐(す)えた匂いもし、さびしい時こそ冷たい風が袂を抜けるようなろくでもない都だ。

しかしそんなろくでもない都に生きるからこそ、この足で踏ん張る意味がある。

この手で描き続ける意味がある。

この目に焼き付ける意味がある。

(わっちゃア傍観者などに、決してなるものか。・・・・・・)

ふと、豊国の言葉が甦った。自分が自分を諦めた瞬間に、「傍観者」が生まれる。

そんなものになってやるものかと思う。

この時代の、傍観者に。

この江戸の、傍観者に。

「絶対そんなものにゃ、ならねえ」。

その言葉は、今ようやく国芳の中に生命を得て輝きはじめた。

国貞の兄さんみてえな叶うわけのない天才がいるこの江戸で、みつが待つこの江戸で、大好きな人たちも大嫌いな人たちも皆が生きるこの江戸で、自分の目で見、自分の足で立ち、大手を振って歩いてゆく。

何一つままならないこの江戸で。

(やってやる。・・・・・・)

両国橋の真ん中で、国芳は誓った。

かならず己の道の上で笑って生きて、生き抜いてゆくと。

「わっちゃアかならずやってやる!」

国芳の叫び声に、唐辛子売りも河童も大人も子どもも皆が振り返った。その視線の先で、国芳はチャッと尻をからげ、両国橋から韋駄天のごとく駆けだした。

「おみつ!待っていろ!この空の色を、必ずめえにも見せてやらア!」

目指すのはただひたすら、光の差す方である。

・・・・・・

 

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