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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第25話

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しかし、

「付いてねえ」。

崩れた本の山を再び積み上げながら、国芳はそうぼやく。ここにきてとうとう天から見放されたかと思うほど、仕事がなかった。

最後の本を積み上げようとした時、ひらりと一通、手紙が落ちた。

拾い上げると、穴が開くほど読み返した豊国の遺言であった。

葬式の後、兄弟子の国貞から渡されたのである。文面はいたって短い。

「色んな版元におめえの事を頼んでおいたから、時期に仕事が来るはずだ。それまでは焦らず真面目に精進せよ」という内容である。

期待に胸を膨らませて半年、膨らんだ胸もしぼみ切るほど、まったく仕事の気配すらない。チクショウ、父っつぁんも大した事ねえな、と段々豊国にまで腹が立ってきた。

「アー!もうやってらんねえ!」

「どうしたの、芳さん」

ビリリと手紙を破く音がして、佐吉は愕いて国芳を見上げた。当の国芳は既に飛び起きて褞袍に三尺帯をキュッと締め直し、

「ちょいと今から青盛堂に仕事くれって頼んで来る!」

言うが早いか、画稿数枚を引っ提げて佐吉の家を飛び出した。

向かうは一番近所の地本問屋、両国米沢町の加賀屋吉兵衛が営む青盛堂である。

地本問屋や絵草紙屋の軒先というのは、春は花、秋は紅葉で飾ったように年中美しい錦絵が吊されており、通りかかる子どもが思わず足を止めてとろんと見とれるほどに華やかなものだ。

 

「ごめんくだせえやし、旦那ア、旦那ア!」

国芳は青盛堂の屋標を染め抜いた大のれんを横目に土間に踏み込み、奥に向かって声を掛けた。売り子が慌てて、

「ヘエ、そんなに叫ばなくとも今旦那ア呼んで来やすからちょいとお待ちくだせえ」

売り子が奥に引っ込むと、入れ替わりで主人の加賀屋吉兵衛、縮めて加賀吉が出て来て国芳を見るや眉を開いて嬉しそうな表情をした。

「アラッ!マア!ちょいと!これはこれは!ちょいと!マア!お待ちしてましたよう!えーッと、どちら様でしたっけ」

国芳はひっくり返った。

「国芳です。歌川豊国が門人の歌川国芳」

ああっ、と加賀吉は手を打った。

「豊国先生のお弟子さん!エエ、ハイハイ!そうでしたそうでした。国芳さん。今日はいかがなさいました」

「豊国の父っつぁんが生前、わっちの仕事の事をその、なにか良いように言い含めていたと思いやすが、父っつぁんが死んで半年も経ちましたし、もうそろそろ何か良い話が沸いてくる頃じゃねえかと・・・・・・」

この通り画稿も幾つか持ってきました、そう言って国芳の取り出した画稿を加賀吉は受け取り、パラパラと捲って頷いた。

「ンー、確かにどれも良い絵ですねえ。ねえ、三助」

「あい!あい!」

せっかちそうな使用人の一人が、ブンブンと首を縦に振った。

「でも、うーん、今は旦那のこの元気な絵に見合う企画がなくてねえ。のう三助」

「あい!あい!」

「旦那ア!そこをなんとか・・・・・・」

「ほんに申し訳ございませんけどね、今は手前共の力不足で、ちょうど上手い具合にご紹介できる企画というのが、本当に無いのですよ。本日のところはご勘弁くだせえやし」

画稿ごと突き返されて、国芳はぐうの音も出なかった。

「そうですか」、

加賀吉が突き出した紙を、国芳は静かに受け取った。弟子が引き際が悪いとなれば豊国の名に傷がつく。

「仕方ねえ。そういう事なら今日は引き揚げやさア。またいい話が来たら、ぜひ歌川国芳を使ってやってくだせえ。どうも、忙しい所を邪魔しちまって、相すいやせんでした」

国芳は茶を勧められたのも断って、すごすごと引き揚げた。

こういう時、本当は一杯ひっかけて帰りたいところだが懐が寒しくてそれもできない。

代わりに両国橋の上で、しばらくぼんやりする。

両国橋は、江戸の町を鍋で濃く煮詰めたようなところである。

馬鹿に大きな唐辛子の張り子を背負った唐辛子売り、天秤に野菜やら魚やらを担いだ棒手振り、子犬のようにじゃれ合う町娘、肩車して笑いあう幼子と父親、美人局、相撲取り、すり、泥棒、知った顔に知らぬ顔、ありとあらゆる人間が流れてゆく。

橋の中央で欄干にもたれてぼうっとそれを眺めていると、腹の底からなんだかわけのわからない元気が湧いてくる。

この町では、どんなに馬鹿げた大道芸でもその日啜るたった一杯の酒のために本気でやる。江戸の人間は真剣にふざけるのが得意だ。

馬鹿馬鹿しいと思う。だが馬鹿馬鹿しいほど、いとおしい。

誰もがそう思っている。

通行人は両国橋で日々披露される大道芸を馬鹿馬鹿しいと思いながらもくすっと笑って、一銭でも二銭でもお金を落としていく。くだらない事に一生懸命なその心意気を買うのである。

しばらくそれを眺めていると、橋の下の川から、国芳の耳に女の嬌声が飛び込んできた。

「やアねえ、先生ってば!そんな面白い事言って!」

「ほんに、先生の絵って粋ちょんだわア!」

先生先生という呼び声に、ぴくり、と国芳の耳が反応した。

(今確かに、絵と言ったな)

わっちがこんな空っ風に吹かれている時に、女を船に乗せて乱痴気騒ぎをしている浮かれた絵描きはどこのどいつだ。ちょいと顔でも見てやろう。

国芳は、軽い気持ちで橋の欄干から舟上の遊客を見下ろした。

(あっ!・・・・・・)

見た瞬間、全身の血が逆流したようであった。沸騰するほど身体が熱くなり、頭が殴られたようにぐわんぐわんと揺れた。

(国貞の兄さん・・・・・・!)

豊国の死後、あんなに憔悴していた国貞が、泥酔してすだれを上げた屋根船から身を乗り出し、女と戯れている。

まさに、国芳が喉が手が出るほど欲しい栄誉を手にした者の姿であった。

(どうしたって、国貞兄さんには、敵わねえ・・・・・・)

国貞の姿を見るたびに突きつけられるその事実に、国芳は砕けるほど歯を噛み締めていた。

そうしているうちに、いよいよ酔態の極まった国貞は、舟から乗り出して盛んに何かを叫び始めた。

(あの狐、相当酔っていやがる。何を言っているんだ)

国芳が耳をそばだてると、国貞の声が風に乗って飛び込んできた。

「私はア!いつか!いつかかならず!豊国になるぞオ!」・・・・・・

・・・・・・

 

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