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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話:3ページ目
「だって、日がな一日あの奥の部屋に閉じこもって、勉強に楽器に花に香にお茶・・・・・・。それも、嫁ぐためならまだしも、男に身を売るためによ。あたし、あのまま直坊に出会わなかったら、本当に気がおかしくなっていたと思う」。
「てこたア、俺が花魁を救ったんですね」
「うん。命の恩人だよ」
二人は顔を合わせて笑った。
あの鮮烈な出会いの日以来、直吉は遣り手や楼主、他の若い衆の目を盗んでは、紫野の部屋に忍び込み、話し相手になった。そして、引っ込み新造になった紫野を知れば知るほど可哀想に思った。
好奇心の強い利発な娘を部屋の奥に閉じ込める事ほど、不幸な事はない。可哀想だと思うにつけ、直吉はこの紫野に何かしてやれる事はないかと考えるようになった。菓子に絵本、色紙遊び、路傍に生えた鬼灯の実で笛の作り方を教えたりと、実に様々なものを外から運びこんだ。
紫野の奏でる世にも美しい琴や三味線の音色に合わせて鬼灯の実の笛をぷうぷう鳴らして、二人で腹を抱えて笑った事もあった。毎年正月になると、紫野がこっそり外に出るのを手伝いもした。
拾ってきたぶち猫を、こっそり紫野に与えた事もあった。ちなみにこの猫は今も紫野の傍にいる猫である。そして数年前、紫野にとって最大の影響力となる本との出会いをもたらしたのも、この直吉であった。
・・・・・・
「新造」、
と当時直吉は紫野の事をそう呼んでいた。
「これ、俺が一番好きな本」。
部屋の中で一緒にいても、つまらないつまらないとぼやいてばかりの紫野に直吉が手渡したのは、先述の曲亭馬琴の読本「新編水滸画伝」だった。「傾城水滸伝」の先駆けとなった作である。
基礎は唐国の小説「水滸伝」だが、馬琴が江戸の庶民にも分かりやすく丁寧な補足訂正を行い、更に当時読本挿絵で評判だった葛飾北斎が挿絵を描いた。明快な文章に細やかで工夫の凝った挿絵付きとなれば、面白くないはずがない。
「女が読んで面白いものじゃアねえとは思うが、新造は人よりちょいと変わっているからね、ひょっとするってえと、日頃の憂さ晴らしになるかもしれねえ。つまらなければ、またすぐ別を用意するよ」
「ありがとう」
この時直吉は、紫野がまさか自分より深く水滸伝の世界に魅了されてしまうとは思いもしなかった。次に紫野に会った時、紫野は既に「新編水滸画伝」の初編を読了していた。
紫野が枕に肘を付き、はあ、と深い溜息を付いたので、
「やっぱりつまらなかったでしょう、新造」
直吉が訊くと、
「史進って、格好良いよねえ」
予想とまるで反対の答えが返ってきて、直吉はひっくり返りそうになった。
「新造、もしかして」、
「直吉、あたし、史進に惚れちゃった」。
紫野が薄墨の瞳に滴りそうな憂いを湛え、婀娜っぽい表情でそう言うので、直吉は全く笑い事ではなくなった。
「新造!?でも史進はよ、現実には居ない訳で、いや、仮に唐国には居たとしても、この江戸にゃア絶対居ねえ訳で!」
「そんな事、分かってるよ」
紫野はくすっと少し悲しげに笑った。その表情を見た時、アア何で俺アこんなにムキになっているんだろう、と直吉は思った。
紫野が小説の中の男に憧れるのは、現実の世界では年相応の相手と恋する事も許されず、真っ当な相手に嫁ぐ事も叶わない自分の運命を分かりきっているからではないか。
(そうですか、と笑って聞いてやれば良いものを、俺は何故こんなにムキになって言い返しているんだ)
その時突然、直吉の目には鳥瞰図のように自分の姿が俯瞰して見えた。
(ああそうだ)、
きっと、俺ア初めてこの女に出会った時からずっと、この女にそんな風に想われたいと思っていた。・・・・・・
・・・・・・
「直坊」、
嫌だと言ったのに、またそんな風に紫野が直吉を呼んだ。
「この『傾城水滸伝』は、歌川豊国という人が挿絵を描いているんだよ」
新編水滸画伝が世に出た後、曲亭馬琴と葛飾北斎は大喧嘩し、絶交した。だから今回の挿絵は、歌川の大御所に白羽の矢が立ったのだ。
「ええ、もちろん知ってますよ」
直吉は絵師にはさほど造詣がなかったが、歌川豊国の名前くらいは廓内(なか)の子どもでも知っている。何故そんなことを改めて花魁が言うのか、分からなかった。
「今年の一月に、死んじゃったんだ」。
「それあ、悲しいですね」
「うん。だからもう、この『傾城水滸伝』は豊国の挿絵じゃなくなるんだって。次からは豊国の弟子の、国安って人が挿絵なんだってさ」
「よくご存知で」
「・・・・・・」
紫野は答えなかった。
答えずに、俯いて頬を染めている。
直吉は知っている。
紫野に、浮世絵師の間夫(まぶ)ができた事を。
紫野はたまに「紫野花魁」から「みつ」という一人の女に戻って、その男に逢いに裏茶屋へゆく。豊国の話もそこで聞いたのだろう。
直吉は、間夫ではない。
ただの、女郎屋の奉公人だ。
どうしたって、紫野の隣に並ぶことは出来ない。例え女の絹のような肌の上をぽろぽろと真珠の粒がこぼれ落ちても、その濡れた頬に触れる事はおろか、床にこぼれたその涙を拾い集める事すらも許されない。
きっとそれは死ぬまで変わらない事実なのだろう。
だとしたら、直吉に出来る事はただ一つだった。
「次の二編が出たら、今度アすぐに外に買いに走りまさア。花魁のお望みなら、何だって聞きやす。直吉の直は、素直の直なんですから」・・・・・・
それを聞いた花魁が、少し湿った睫毛を上げて、何も言わずにただくしゃっと小さな顔いっぱいに笑った。
その笑顔があんまり眩しくて、直吉はいつかのように、思わず目を瞑った。
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