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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第24話

紫野は、直吉の事を直坊と呼ぶ。確かに出会った時直吉はまだ八つ、細くてちっぽけな子どもだった。火事で家も二親も失い、食うにも寝るにも困った。身一つで浅草の口入屋に飛び込み、何でもしますと拝み倒してようやく拾ってもらえたのがこの吉原の岡本屋であった。

その頃の紫野といえば、ちょうど引っ込み禿(かむろ)から引っ込み新造になったばかりで、見世の奥で宝玉のように大切にされていた。今でこそ外出も許されているが、当時はそれも禁止されており、他の女郎たちとは全く別格扱いであった。

 

今や紫野は見世の看板花魁、直吉も十八の立派な青年である。

 

「花魁、その直坊ってえ呼び方は、ちょいと頂けねえよ」

 

直吉は口を尖らせた。

 

「なんで」

 

「なんでって、十年前は直坊で良かったけど、今ア子どもっぽくてさあ」

 

「いいじゃない。そう呼ぶと、あたしが直坊と仲良くなった時の事をいつも思い出すの」

 

紫野が、遠くを見やって笑み笑みした。

 

「仲良くなった時・・・・・・」

 

直吉には、忘れがたい記憶がある。

 

それは十年前、八つの直吉が岡本屋の丁稚として雇われて少し経った頃の事であった。

 

丁稚の一日は、雑巾掛けに始まり、雑巾掛けに終わる。ある時、直吉はいつものごとく襷をばってんに掛け、雑巾を手に廊下の隅から隅までピカピカに磨いていた。

半刻もそうしていると凝り性の直吉は段々と夢中になり、気が付けば絶対に行ってはいけないと言われていた奥の間の前まで来てしまった。咄嗟に、遣り手の怖い顔と一番初めに言われた言葉が脳裏に蘇る。

あの奥にいる子は、おめえが話しかけていいような人間じゃあないよ。将来は呼び出しつまりこの見世一番の花魁になる子だからね、絶対に近寄ってはいけないよ。・・・・・・

 

(いけねえ、遣り手に叱られらア)

 

少年が慌ててその場を離れようとした、その瞬間であった。

障子のほんの僅かに開いた隙間から、柳の枝のような白い細い手がすっと差し出されたのである。

 

(あっ)

 

それはまるで、幻のような美しい手であった。

 

死んだおっ母ちゃんのあかぎれだらけの黒ずんだ手しか知らなかった直吉には、一生触れる事のない天女の手、はたまた天に咲く白い花のように思われた。

直吉がじっとそれを凝視したまま動けずにいると、あろう事か、その手がゆっくりたおやかに動いて、おいでおいでをした。

直吉は慌てて振り返って背後を確認したが、誰も居ない。

このおいでおいではその瞬間、確かに直吉だけのものであった。

 

(俺ア、天に召されッちまったのだろうか)

 

少年は、ふわふわと浮遊するような不思議な気持ちになって、一歩一歩その手に吸い寄せられた。ついにその手の眼の前に辿り着き、直吉が恐る恐るそのほっそりした指に触れる。すると、

 

「うわっ!」

 

その手に思い切り腕を掴まれ、痩せた小枝のような少年の身体は、一気にその部屋に引き摺り込まれた。畳の上に転がされ、恐怖でギュッと目を瞑った時、

 

「捕まえたっ!」

 

女の子の興奮して上ずった声が、上から降ってきた。

直吉が恐る恐る目を開けて、一番初めに視界に飛び込んできた紫野の笑顔は、今でも鮮烈に頭に残っている。顔をくしゃくしゃにして笑うその顔が余りに眩しくて、初めて見るその薄墨の瞳が余りにきらめいていて、直吉は確かもう一度目を瞑った。

 

・・・・・・

 

「あの頃から、花魁は何にも変わっていねえよなあ」

 

十八の直吉が腕組みをして眩しそうに目を細めた。

 

「直坊は、変わったね。あの時吹けば飛びそうなくらい小っちゃくて、可愛かったのに」

 

「そりゃどうも。お陰様で、今アこんなに大きくなりました」

 

人並み以上に背丈の伸びた直吉は、今は紫野の花魁道中で肩を貸す男衆を務めている。

 

口もとを隠してくすくす笑う紫野に、直吉はあっかんべをした。

 

「あの頃から、直坊がせっせとこうしてお使いに行ってくれて、お陰で随分楽しい思いが出来たよ」

 

「最初に俺を部屋に引っ張り込んだあの時、花魁何て言いましたっけ?『あたしとお友達になって』?」

 

ははっ、と直吉は可笑しそうに八重歯を覗かせて笑った。

 

「そんな事だったろうね」、

 

紫野は神妙に頷く。

 

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