『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の大坂城は地下7mに眠っている!徳川が封印した“漆黒の巨城”の真の姿:3ページ目
馬出しの発見で浮かび上がる、豊臣大坂城の実戦的な縄張り
では、豊臣時代の大坂城の全体像は、どのようなものだったのでしょうか。
繰り返しになりますが、豊臣大坂城は徳川幕府による再築の際に盛り土で覆われ、現在、その姿を地上から直接見ることはできません。
しかし、在りし日の様子をうかがい知る手がかりがまったくないわけではありません。『大坂夏の陣図屏風』などの絵画史料や古絵図から、城の構造や当時の様子をある程度復元することができます。
ただし、城の縄張りや城下町を含めた大坂城全体の構造を解明するには、絵図や絵画だけでは十分ではありません。
そこで注目されるのが、発掘調査によって得られた考古学的な知見です。ここでは、大阪城天守閣や大阪市の文化財調査資料などを参考に、地下に眠る豊臣大坂城の調査の歩みを時系列で整理してみましょう。
●1899年(明治32年):『大坂城誌』などにおいて、豊臣時代と徳川時代の大坂城の違いが論じられ、後の研究につながる問題提起がなされました。
●1959年(昭和34年):大阪城総合学術調査の一環として、本丸の地下約7メートルで石垣が検出され、豊臣時代の大坂城を考えるうえで重要な発見となりました。
●1960年(昭和35年):中井家伝来の豊臣時代の大坂城の絵図が確認され、前年に発見された石垣との比較を通じて、豊臣大坂城の復元研究が大きく進展しました。
●1960年代以降:ボーリング調査などによって、地下に埋もれた石垣の位置や地盤の状況が調べられ、豊臣時代と徳川時代の大坂城の構造を解明するための資料が蓄積されていきました。
●1984~1985年(昭和59~60年):配水池の改良工事に伴う発掘調査で、豊臣大坂城の中枢部にあたる詰丸の石垣が発見・調査されました。徳川時代の盛り土の下に、豊臣時代の城の構造が残されていることを具体的に示す成果でした。
●1988年(昭和63年):本丸での調査により、豊臣時代の天守台石垣が確認され、天守の位置や構造を考えるうえで重要な手がかりとなりました。
●2013~2021年(平成25~令和3年):豊臣時代の石垣を調査・保存し、一般公開するための「豊臣石垣公開プロジェクト」が進められました。段階的な発掘調査により、詰丸石垣やその周辺の遺構について、詳しい調査が進みました。2021年2月には、発掘された石垣の一般公開も行われました。
●2025年(令和7年):豊臣時代の石垣を間近に見学できる「大阪城 豊臣石垣館」が4月1日に開館しました。長年、地中に埋もれていた石垣を、地下の展示空間から観察できるようになったのです。
このほか、大阪府庁や大阪府警察本部周辺などでも発掘調査が行われ、堀の跡や金箔瓦、陶磁器、石材など、豊臣大坂城の実像を考えるうえで重要な遺構・遺物が確認されています。
このなかで注目すべきは、大阪府警察本部庁舎の建設にあたっての発掘調査でした。庁舎は、大坂城大手門の外堀を渡った正面にあり、豊臣時代の大手門もさほど変わらない場所にあったと推測されています。
この発掘調査で、コの字型に囲い込んだ巨大な堀が検出されました。そしてこの巨大な堀は、大手の出入り口の前に備えられた強力な反撃拠点である「馬出し」と判明したのです。また、豊臣大坂城には大手口だけでなく、京橋口、玉造口にも馬出しが備えられていたと考えられるようになりました。
従来、豊臣大坂城は、本丸-二ノ丸-三ノ丸-惣構えという構造だったとされてきました。しかし、大手門前の馬出しの発見により、本丸-二ノ丸で構成され、二ノ丸の出入り口である三カ所(大手口・京橋口・玉造口)に強力な馬出しを備えた実戦的城郭であることが判明したのです。
そして、本丸や二ノ丸を含む城の中枢部は、城下町をも包み込む大規模な惣構えによって守られていました。その規模は、約8キロメートルにも及んだとされます。
こうして絵図や発掘調査の成果を重ね合わせることで、少しずつ明らかになってきた豊臣大坂城。地下に眠る石垣や遺構は、秀吉が築いた天下人の城の姿を、今も私たちに語りかけているのです。
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※参考文献
千田嘉博著 『城郭考古学の冒険』幻冬舎新書
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文春新書



