『豊臣兄弟!』秀吉(池松壮亮)の大坂城は地下7mに眠っている!徳川が封印した“漆黒の巨城”の真の姿:2ページ目
絵図と発掘調査が明らかにする豊臣大坂城の中枢部
豊臣氏時代の天守は、大坂城の中心部に位置し、そこには本丸よりも上位の空間として石垣で囲った詰丸(詰ノ丸)がありました。この詰丸こそ、秀吉が寧々をはじめとする豊臣一族と暮らしたプライベートな場所で奥御殿と呼ばれていました。
天守はこの詰丸の北東隅にあり、詰丸の南には本丸があり、ここには対面用の御殿や秀吉の執務空間があったと考えられています。
『豊臣兄弟!』の大坂城の場面では、秀長が上洛した徳川家康(松下洸平)を屋敷でもてなす際、庭越しに天守が見える場面がありました。これは秀長の屋敷が本丸ではなく、西の丸辺りにあったことを表わします。たとえ秀長であっても、その屋敷は本丸の外側に構えていたのです。
では、地下に埋もれている豊臣大坂城の中心部はどのような空間だったのでしょうか。
それを知る重要な絵図としては、家康の大工棟梁を務めた中井正清の家に伝わった『豊臣大坂城本丸図』、広島浅野家に伝わった『浅野文庫諸国古城之図/豊臣大坂城本丸図』が挙げられます。
このうち、中井家伝来の絵図は、1960年(昭和35年)に日本城郭協会の櫻井成廣氏によって紹介され、地下で発見された石垣が城内のどの位置にあたるのかを検討するための重要な手がかりとなりました。
ちなみに、この絵図は1614年(慶長19年)の大坂冬の陣開戦の際に、家康が正清に命じて描かせた大坂城攻略のための作戦絵図であったとの説があります。となると、そこに描かれた本丸の縄張りは、秀頼による大坂城の最終段階の姿とも推測されるのです。
3ページ目 馬出しの発見で浮かび上がる、豊臣大坂城の実戦的な縄張り

