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『ブラッサム』強烈モラハラの父(渡部篤郎)と優しい継母(国仲涼子)…史実もドラマ越えの壮絶さだった!?

『ブラッサム』強烈モラハラの父(渡部篤郎)と優しい継母(国仲涼子)…史実もドラマ越えの壮絶さだった!?:3ページ目

実際の「私の父、私の母」は?

宇野千代の父親とは、どのような人物だったのでしょう。

宇野俊次は、明治30年(1897)、山口県高森(現・岩国市周東町)の代々酒造業『宇野酒造』の次男として生まれました。

分家の養子になり本家から相当な財産分与を受けるも、定職に就かず、競馬・博打・遊興・放蕩で使い果たし、本家からの仕送りに頼る生活だったそうです。

千代が1歳半で実母・トモを亡くした後、17歳の佐伯リュウと再婚します。

さらに、14歳の千代を従兄・藤村亮一に嫁がせました(千代は10日ほどで出戻りました)。

俊次は、千代自ら「バルザックかドストエフスキーの小説にしか出て来ないような一種の奇人乃至狂人だった」、「馬を何頭も飼って競馬に出し、博打もし、あらゆる道楽をし、放蕩を極めた」、「対話は父の命令と私の答えだけにかぎられた」、「私たち子供に対しては峻厳そのもの、スパルタ式の教育を施してはばからなかった」、「草履は腐るが足は腐らんと言って、雪の日に、学校へ行くのに裸足で行かせた」と語るような特異な父親であった。
(宇野千代の人生と文学 父・俊次の死 NPO 宇野千代生家 より)

これだけでも、かなり強烈な人間だったのが伺えます。

千代が85歳の頃に描いた自伝的小説『生きていく私』などにもあるので、ご存知の方も多いでしょう。

けれども、改めてドラマでみると、オープニングで自由に軽やかに踊る成長した珠と、父親に抑圧されている少女時代の珠のコントラストの強さが浮き彫りになりますね。

この父と別れ、自由に飛び立って行く様子が早く見たいと思いました。

4ページ目 優しい継母とは生涯の続く仲に

 

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