『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後…:3ページ目
「鬼若子」元親を待っていた現実
秀長は1585年(天正13年)6月、蜂須賀正勝(高橋努)、黒田孝高(倉悠貴)、宇喜多秀家、羽柴秀次(山田涼介)、さらに毛利輝元(濱正悟)配下の中国勢など、10万とも12万ともいわれる大軍勢を率いて四国へ侵攻しました。
これに対し元親も土佐勢を中心に4万ほどの軍勢を動員して抵抗しますが、伊予・讃岐・阿波の諸城は次々と羽柴軍の手に落ちていきます。
元親は防衛拠点としていた阿波の白地城(はくちじょう)において、一度も決戦をせずに降伏することを恥辱と考え、「たとえ本国の土佐まで攻め込まれても徹底抗戦する」と主張しました。
しかし重臣たちの説得を受け、秀長による停戦条件を受け入れ、ついに降伏したのです。
長宗我部氏は、それまで四国各地で連戦連勝を重ねてきました。
しかし、秀長率いる羽柴軍を前にすると、短期間で降伏せざるを得ませんでした。
もちろん、10万から12万ともいわれる羽柴軍と、これを迎え撃つ長宗我部軍との兵力差は大きかったでしょう。
しかし、元親敗戦の理由はそれだけではありません。
武具や馬具、兵糧など、羽柴軍と長宗我部軍との装備・補給力の差もまた、大きな要因だったと考えられます。
元親に降伏を説いた重臣・谷忠澄は、『南海治乱記』の中で、羽柴軍と長宗我部軍の違いを次のように記しています。
「上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。また、兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。国には兵糧がなく、とても上方とは比較にならぬ」
「鬼若子」と恐れられた元親が、秀長の大軍を前にして直面したのは、まさに戦国大名としての国力の差、そのものだったのです。


