【豊臣兄弟!】16歳の若武者が「小牧・長久手」で壮絶な最期!家康を勝利へ導いた病床からの死闘
羽柴秀吉と徳川家康が対決した小牧・長久手の戦い(天正12・1584年3~11月)では、戦上手の家康を前に、秀吉が苦戦するイメージが強いです。
しかし徳川方にしても、まったく無傷だった訳ではなく、討ち死にする者もいました。今回は丹羽氏重(にわ うじしげ)が演じた岩崎城の戦いを紹介したいと思います。
兄の不在を守る
丹羽氏重は永禄12年(1569年)、岩崎城主(愛知県日進市)を務める丹羽氏勝(うじかつ)の子として誕生しました。
兄の丹羽氏次(うじつぐ)とは19歳離れていましたが、兄弟仲良く暮らしていたと言います。
やがて元服して通称を次郎助(じろすけ)または次郎三郎と名乗りました。
小牧・長久手の戦いでは氏次が出陣したため、氏重が城代として岩崎城の守備を務めます。
しかし当時、氏重は疱瘡(天然痘)を患っており、病床に臥していました。
そこへやって来たのが、羽柴方の池田恒興らが率いる15,000の大軍です。
彼らは戦線の膠着状態を打破するため、三河中入り、つまり手薄になった家康の本拠地である三河国を奇襲しようとしていたのでした。
はじめ羽柴方は、岩崎城を攻めるつもりはなかったようです。こんなところで時間を浪費していたら、奇襲前に気づかれてしまうでしょう。また戦略的に大して重要でもないでしょう。
病床からの出陣
そこで大軍を恃んで「どうせ攻めかかれまい」とばかり、岩崎城近くを悠然と通過していく羽柴方を前に、氏重は悔しくてなりません。
ただちに撃って出ようとする氏重ですが、家臣たちはその病身をとどめようとしたことでしょう。
「敵は大軍、我らは少数なれば、勝ち目はおろか痛手を与えることすらかないませぬ。ここでいたずらに兵力を損なうべきではないかと」
「左様。ここはいっときご辛抱いただき、後日を期しましょう」
しかし氏重はこれを聞き入れませんでした。
「黙れ。かつて御屋形様(家康)は武田の大軍に軽んじられたことをよしとせず、討ち死に覚悟で決戦を挑んだではないか。敵の大軍を恐れて見逃しては武士の名折れ」
「また我らがここで時を稼げば、小幡城の友軍や小牧山城の本隊まで報せが届く。敵の奇襲を食い止められるなら、命を捨てるだけの価値はあろう」
氏重の心意気にふれた家臣たちは、一同奮い立ったことでしょう。かくして氏重主従は岩崎城から出撃し、池田恒興の大軍に挑みかかりました。
