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『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後…

『豊臣兄弟!』なぜ長宗我部元親は秀長に屈した?史実に残る2人の関係性と「鬼若子」のその後…:2ページ目

秀吉は雑賀衆・根来衆とは以前から小規模な衝突を繰り返していましたが、ついにその平定を目指して大軍を動かしたのです。

羽柴軍はまず和泉国の雑賀衆・根来衆の諸城を攻めます。

このとき秀長は、城に籠城した根来衆に対して懐柔策を行ったことが『宇野主水記』に記されています。

それによると秀長は、「自分に仕える気がある者には還俗を認め、出家したままでいたい者には他所へ逃れる」ことを認めています。

つまり、無用な戦いを避け、できるだけ穏便に事を収めようとしたのです。

秀吉・秀長にとっては、石山本願寺の戦いや、その後の小競り合いを通じて、鉄砲を巧みに使う雑賀衆・根来衆の強さを身に染みて理解していたのでしょう。

秀長の彼らへの働きかけは、そのことを物語っているのかもしれません。

和泉の諸城を落とされた雑賀衆・根来衆は、紀伊国の低湿地に築かれた太田城に立て籠もります。

城内からの射撃に手を焼いた秀吉は水攻めを行い、堤防の決壊などもあって攻略には約1カ月を要しました。

最後は蜂須賀正勝・前野長康らが説得にあたり、城主・太田左近らが自害することを条件に開城。

このとき、左近ら53名が自害したと伝えられ、こうして紀伊の平定がほぼ終わったのです。

秀長、四国攻めの総大将となる

雑賀衆・根来衆を屈服させた秀吉は、休む間もなく秀長に四国攻めを命じます

土佐国主の長宗我部元親は、もともとは織田信長(小栗旬)と誼を通じており、信長から四国の切り取り次第を認められていました。

しかし1581年(天正9年)頃になると信長は方針を変更し、元親には土佐一国の支配のみを認める通達を出します。

これに反発した元親に対して、信長は三男・織田信孝(結木滉星)を総大将として四国征伐軍を組織しますが、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変によって、この計画は立ち消えとなりました。

その後、元親は讃岐・阿波・伊予へと勢力を広げ、四国統一を目指します

しかし、信長の遺志を引き継ぐ形で、長宗我部氏との対決路線をとった秀吉は、これを認めませんでした。

このような状況のなか、1583年(天正11年)末には、元親と秀吉との間で和睦が協議されたとする説もあります。

しかし交渉はまとまらず、紀州征伐が終わると、ついに秀吉は四国征伐へと乗り出したのです。

3ページ目 「鬼若子」元親を待っていた現実……降伏へ

 

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