【豊臣兄弟!】山田涼介が演じる他責思考のZ世代武将・秀次の悪評は罠?史実が語る“悲劇の名君”との落差:3ページ目
本当は激怒し秀次を叱責する手紙を書いた秀吉
実際、天正12年(1584)小牧・長久手合戦にて、秀吉軍の策は徳川軍に看破され作戦変更。
数え17歳の秀次が『三河中入り作戦』(岡崎方面への別働隊侵攻)で一隊を率いたものの、徳川軍の急襲で白山林で敗走したことは、通説として有名です。
『太閤記』や諸記録に基づき、現代の歴史叙述・自治体史でも標準的に記述されています。
このとき、秀次はただの名目上の総大将で、実際の指揮は老練な将に依存していた面が強く「若年ゆえの経験不足が敗因」とも。
ドラマでの秀吉は、秀次に対してゆるめの叱責でしたが、実際はめっちゃ怒っていたようです。
奇襲したのは、徳川四天王の一人である猛将・榊原康政(栗原類)だったので、経験値の少ない秀次が負けてもしかたないとはいうものの、秀吉は面子を潰された思いもあったのかもしれません。
江戸時代前期の『武家事紀』(山鹿素行)には……
秀吉似書責三好秀次
九月廿三日、宮部善浄坊・八須賀右衛門ヲ似テ九箇篠ヲシルシ、秀次武義ノ覚悟ヲオコリラリ、秀吉ノ近親ニヨッテ諸人ニ無禮ヲナスコトヲ諷諷シ、且於長久手敗北ノ事を責、
という記述があります。
現代語に意訳すると…
「秀吉は書状を送って三好秀次を叱責した。
九月二十三日、宮部善浄坊(宮部継潤)と蜂須賀右衛門(蜂須賀正勝)を使者として、九箇条(五箇条とも)の文を記し、秀次に武人としての覚悟を起こさせるように促した。」
という意味合い。
そして、具体的に「甥であることを鼻にかけるな」「名将たちを討ち死にさせたのはとんでもない」「手討ちにすることもあり得る」などというような内容が書いてあったそうです。
ガチで怒った様子が伝わりますね。
けれども、秀次は跡取り候補。「将来は名代を継がせようかとも考えていた、これからの覚悟次第だ。自覚を持て」とも書いてあったとか。
「怒り心頭でも必要な存在」という思いだったのでしょうか。
