全裸で晒されても止まらない…江戸の男女を狂わせた「心中ブーム」の異常すぎる熱狂と幕府の苦悩:2ページ目
幕府の規制と厳罰|「相対死」への改称と見せしめの晒し刑
普通に考えても、心中の流行なんて異常です。当然、こうした流行を幕府は放置しませんでした。
享保7年(1722)には心中を扱う浄瑠璃や芝居が禁じられます。とにかく幕府は心中を美しく見せる文化そのものも危険視したわけです。
そのため、心中という言葉にも手が入れられました。恋愛的な響きを持つ心中という呼び名を避け、公式には相対死と呼ばせたのです。
ちなみに、現代ならこうした規制は表現の自由の侵害と見なされそうですが、実は心中という言葉の公的な言い換えはつい最近も行われています。
ご存じの方も多いと思いますが、2026年9月10日にこども家庭庁は、子供を道連れにする「無理心中」を、今後は「保護者の自殺を伴うこどもの虐待死」と呼び変える方針を示しました。
話を戻し、江戸時代は心中した者も厳しく処罰されました。
実際、寛政5年(1793)2月には、大阪千日前の墓場で心中を禁じる法に反した女性が晒しものになりました。もっとも、全裸の女性を見ようと見物人が集まり、見せしめがかえって見世物になったそうですが。
心中して生き残っても「死刑」又は「晒し刑」…厳しい処罰が科せられた江戸時代の心中事情
江戸時代はさまざまなものが流行した時代でもあります。明るい話題ではありませんが、実は「心中」も江戸時代に流行したもののひとつです。そこで今回の記事では、江戸時代の心中について、その取り締まりや…
江戸では、旗本の藤枝外記は吉原の遊女綾衣と心中。家禄を没収されたうえ、死体を晒されました。
心中未遂の例では、神田酢屋丹波屋九郎兵衛と吉原の遊女音羽、元津軽士原田伊太夫と吉原の遊女尾上などのケースが挙げられます。
規制したにもかかわらず、なくならない「心中」。法律で恋愛感情そのものを止めることは難しかったのでしょう。考えてみれば当たり前です。
3ページ目 「死ぬのは不粋」美意識によって心中ブームが激減した理由

