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【豊臣兄弟!】秀吉vs勝家「賤ヶ岳の戦い」お市を自刃に追い込んだ1年におよぶ調略合戦の全貌

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天正11年(1583年)いざ決戦の舞台へ

この流れに危機感を募らせたのか、1月1日の新年早々に滝川一益(猪塚健太)が伊勢で反秀吉の兵を挙げました。

一益は清須会議の結果として所領の多くを失い、その保障が図られなかったことから、秀吉を恨んでいたようです。

いまだ雪の中で閉ざされていた勝家も、ただじっとしていた訳ではありません。

2月13日には勝家が足利義昭(尾上右近)と毛利輝元(濱省悟)に対して支援を要請しています。

2月半ばに秀吉が一益を討つべく伊勢へ侵攻し、2月末にはとうとう勝家がまだ雪深い越前から兵を挙げました。

勝家は前田利家(大東駿介)や佐久間盛政(遠藤雄弥)ら3万の軍勢を率いて、3月12日に近江国柳ヶ瀬へ到着します。

3月14日には勝家は義昭を室町将軍として奉戴するとともに、輝元に対しては援軍を派遣するよう督促しました。

3月19日になると、伊勢に残留部隊を残した秀吉が近江国木ノ本へ到着。5万の軍勢を配置します。

かくして決戦の舞台が調ったものの、いきなり攻めかかることはせず、互いに陣地の構築にとりかかりました。

天正11年(1583年)いよいよ決戦!

一方そのころ、4月5日に義昭は輝元に対して勝家へ援軍を送るように命じます。しかし輝元は戦況の判断に迷い、その挙げ句に出兵を見送ったのでした。

また4月16日には一度降伏した信孝が美濃で挙兵し、岐阜城を奪還します。

岐阜城を奪還されてしまった秀吉は急きょ美濃へ進軍しますが、揖斐川の氾濫によって足止めを食らい、大垣城へ入りました。

この隙をついて佐久間盛政が中川清秀の守る大岩山砦を襲撃し、清秀が討ち死にしてしまいます。

4月20日に清秀の討ち死にを知った秀吉は、大急ぎで大垣城から近江国木ノ本へ兵を返しました。

これが世に言う「美濃大返し」、秀吉は強行軍の末に十三里(約52キロ)を二刻半(約5時間)で走破する荒技を見せています。

よもやこんなに早く秀吉が戻ってくるとは夢にも思わなかった佐久間盛政の陣営は大混乱に陥りました。

かくして4月21日に決戦が繰り広げられますが、勝家に与していた前田利家が、なぜか兵を引き揚げてしまったのです。

その理由には諸説あり、かねて秀吉の調略を受けていたとも言われます。しかし前田勢の撤退時には羽柴勢の追撃を受けており、相応の犠牲を出していることから、一概に断定は出来ません。

前田利家の戦線離脱によって柴田勢の士気は大いに下がり、決戦の軍配は秀吉に上がりました。

3ページ目 天正11年(1583年)ついに決着!

 

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