『豊臣兄弟!』互いに譲れぬ覚悟!秀吉とお市の板挟みで苦悩する小一郎を描いた第31回放送を振り返り:2ページ目
勝家と結婚したお市の覚悟
「兄上の志は、私が継ぐ」
増長する羽柴兄弟と対抗する力を持つため、お市は勝家との結婚を選択しました。他の宿老たち(丹羽長秀・池田恒興)は秀吉の息がかかっており、勝家一派(前田利家・佐々成政)を除けば、秀吉に対抗できる力を持っていなかったからです。
名目上は織田家臣である秀吉に対抗するために他の勢力(毛利輝元・上杉景勝など)と連携するのはさすがに本末転倒ですから、やはり勝家がほぼ唯一の選択肢だったと言えます。
もう後がないお市は、言わば織田家と添い遂げるために、勝家を後ろ盾に選んだのでした。
お市を結婚させた秀吉の覚悟
清須会議で勝家とお市の縁談を提案した秀吉の目的は、お市を通じた勝家の篭絡、そして隙を見せた勝家の討滅に他なりません。
小一郎はともかく、秀吉は既にお市を勝家攻略の道具と見なし、最後はお市ともども滅ぼす覚悟を固めていたのでした。
実際の秀吉がそこまで読んでお市との縁談を勧めたかはわかりませんが、清須会議の時点ですでに勝家を討つことは視野に入れていたことでしょう。
名前で初登場!千宗易とは?
大徳寺の法要が実現できたのは、千宗易(吉岡秀隆)が口利きしてくれたお陰。そんなことを今井宗久(和田正人)が言っていました。
ご存じ茶人としてその名を知らぬ者はない千利休(せんの りきゅう)を指しますが、この時点でも小一郎はその存在を知らなかった設定になっています。が、実際にはそんなことはありません。
千宗易は永禄12年(1569年)ごろに今井宗久や津田宗及(マギー)ら堺の豪商と共に信長の茶頭(茶の湯師範)として召し抱えられ、茶の湯を嗜むなら知らない者はいない存在となっていました。
独自に茶会を開く許可を与えられていた秀吉の弟である小一郎が、千宗易の名すら知らないというのは、いささか不自然です。
また秀吉は天正10年(1582年)8月に千宗易を訪ねて茶室を作るよう命じ、翌年3月に待庵(たいあん。妙喜庵)を作り上げました。次回当たりお披露目されるのでしょうか。


