『豊臣兄弟!』逃げずに26歳で散った織田信忠(小関裕太)…ドラマでは描かれなかった “幻の天下人” の最期:4ページ目
信長・信忠への忠義を尽くした家臣たち
また、『信長公記』には、信長・信忠への忠義を尽くした家臣の逸話もあります。
たとえば、光秀の片腕・斎藤利三と親しかった松野平助は、明智側につくことを勧められるも、「信長に身に余るほどの知行を得たのに、報いる働きができなかった」とし、自害。
代々、織田家に支えていた土方次郎兵衛も、本能寺の変には間に合わなかったために、武具や衣装などをすべて下人たちに形見として与えてから追腹しました。
山岡美作、山岡対馬兄弟は、明智に味方せよと迫られるものの「信長に受けた御恩は浅くない。でできない」と、勢田の橋を焼き落とし明智軍の進路を妨害。自分たちの居城にも火をかけて、山中へ退きました。
……などと記されています。
また、最後まで二条御所で信忠と戦って討死した家臣には、猪子兵助(高就)、菅屋長頼、福富秀勝など、信忠に忠義を尽くし戦った人々もいました。
信忠の介錯を務めた鎌田新介は、殉死説もありますが、井戸に身を隠して逃げ、豊臣政権になってからは福島正則に仕えたという説もあります。
父子仲が想像できる「鷹」のエピソード
織田信忠は、家督を継承してからは織田軍の総大将としても優れた実績を残し、本能寺の変では果敢に戦い、26歳の若さでこの世を去りました。
実際の信忠の人柄などは想像するしかありませんが、信長と信忠の関係が想像できるような逸話を。
去程 三位中将信忠 岐阜に而庭子の御鷹四足ヨモト御飼立被成候近来之御名従不可過之御鷹師タカシヤウ山曰 広葉両人安土へ 寅七月廿三日 持参候処右之内一足破召上残り者中将信忠へ被成御帰両人御鷹師辛労仕たる之由 上意にて銀子五枚宛に御服相副被下色々忝儀共にて罷帰候也 寅八月五日 奥州津軽之 南部宮内少輔 御鷹五足イツモト進上……
(信長公記「巻十一(十)小相撲之事」)
現代語に訳して要約すると……
三位中将信忠は、岐阜で庭にいる鷹の子を四羽、自ら育てていました。
そして、有名な鷹匠である山曰と広葉の二人にその鷹を安土の父のもとへと持参させたのです。
すると信長は、そのうち一羽だけを引き取り、残りの三羽は信忠へ返すように告げます。
さらに、二人の鷹匠に、銀子五枚ずつと衣服を添えてねぎらい、彼らは感激して帰っていったのでした。
……というような内容です。
もしかしたら、「信忠がせっかく育てたのだから1羽だけもらうけれど、あとは自分のものにしなさい」ということだったのでしょうか。
父息子の仲の良さが感じられるエピソードだなと、想像してしまいました。
最後に…
「豊臣兄弟!」の中では、最期までが描かれなかった織田信忠。信長のオーラが強過ぎて、あまり目立つ感じではないものの。
もし、信忠が生き延びていたら、あの清洲会議も秀吉の三法師の担ぎ上げパフォーマンスも、お市の再婚も、豊臣の天下もなかったのかも……。
そうと思うと、歴史を塗り替えるはずの織田家のキーパーソンだったのだな非常に感慨深い思いでした。
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参考:
『織田信忠―天下人の嫡男』和田裕弘著
『信長公記』太田牛一著
織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男 近衛 龍春著


