「応仁の乱」はまだ甘かった…?本当の“戦国時代の始まり”とされる「明応の政変」という転換点:3ページ目
将軍の権威
では、なぜ明応の政変を戦国時代の始まりと考えるのでしょうか。ここでは応仁の乱との違いが重要になります。
応仁の乱では、東軍も西軍も将軍を擁していました。戦いそのものは激しくても、将軍と幕府の権威を利用する仕組みはまだ残っていたのです。
つまり応仁の乱の段階では、また将軍の存在そのものが政治的な力を持っていました。ところが明応の政変では、その前提が大きく変わります。
細川政元の勢力は、自分たちの意向に従わない十代将軍義材を追放しました。そして新しい将軍として、政治的に扱いやすい義澄を立てています。
これは、将軍が実力者を動かすのではなく、実力者が将軍を選ぶ構図です。将軍の権威が絶対的なものではなくなったことを示す事件だったでしょう。
もちろん、一四九三年から戦国時代が始まったと断定することはできません。応仁の乱を起点とする説も根強く、戦国時代の開始時期にはいくつもの見方があります。
それでも、戦国時代を実力のある者が政治を動かす時代と考えるなら、この変化はかなり大きな意味を持ちます。細川政元が義材を追放し、義澄を将軍に据えた一四九三年は、少なくともその転換点の一つといえるでしょう。
将軍の権威が実力者によって直接動かされた明応の政変まで視野に入れると、室町幕府が戦国の政治へ変わっていく過程は、よりはっきり見えてきます。
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参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
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