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「応仁の乱」はまだ甘かった…?本当の“戦国時代の始まり”とされる「明応の政変」という転換点

「応仁の乱」はまだ甘かった…?本当の“戦国時代の始まり”とされる「明応の政変」という転換点:2ページ目

クーデターの実行

政元が次の将軍候補として選んだのは、八代将軍・義政の弟である足利政知の次男でした。すでに出家して清晃と名乗り、天竜寺の僧となっていた人物です。

ちなみに義材の父である義視も義政の弟でした。つまり義政、義視、政知は、ともに六代将軍義教を父とする兄弟だったのです。

政知は堀越公方を務めていました。堀越は現在の静岡県伊豆の国市にあたり、足利幕府の関東における拠点でした。

そして一四九三年四月、細川政元は清晃を擁立して義材に反旗をひるがえします。クーデターが勃発したのです。これは成功し、義材は降伏することになりました。

清晃は還俗して義高と名乗り、一四九四年に十一代将軍となります。その後、一五〇二年には義澄へ改名したため、史料では十一代将軍を足利義澄と記す場合があります。

一方、将軍の座を失った義材は北陸へ逃れました。その後も各地を転々としながら復帰の機会をうかがったため、流れ公方と呼ばれることになります。

この一連の出来事が明応の政変です。単なる将軍交代ではなく、将軍の意思に従わない実力者が、将軍そのものを入れ替えた事件でした。

3ページ目 なぜ「応仁の乱」ではなく「明応の政変」が戦国時代の始まりと言えるのか?

 

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