『豊臣兄弟!』“いい人”の裏にあった汚れ役の真実…信長・秀吉の間を巧みに生きた丹羽長秀の生涯【前編】:3ページ目
秀吉を選んだ長秀。そして引き受けた「汚れ役」
1582年(天正10年)、信長が明智光秀(要潤)に討たれる本能寺の変が勃発します。
このとき長秀は、織田信孝(結木滉星)を総大将とする四国討伐軍の副将として、大坂方面にいました。本能寺の変が起こったとき、長秀は光秀討伐に動きやすい位置にいたことになります。
しかし、そもそも急ごしらえであった四国討伐軍は、変の報せがもたらされたことで動揺し、兵の多くが逃亡してしまいました。このため長秀は大規模な軍事行動に移ることができず、光秀討伐の主導権は中国大返しを成功させた羽柴秀吉(池松壮亮)に握られることになります。
そして織田家の行く末を決める清須会議には、織田家宿老の一人として参加したものの、会議後にはその立場を秀吉側に置きます。
このとき、三男・仙丸(せんまる)を羽柴秀長(仲野太賀)へ養子に出し、秀吉との縁戚関係も結んでいました。ちなみに仙丸は秀長の没後、藤堂高虎(佳久創)の養子となり、藤堂高吉として名張藤堂家の祖となっています。
そういえばドラマの中でも、織田家の跡取り三法師の後見役にだれを推すかについて聞き出そうと秀長が長秀の肩をもむシーンがありました。秀長は「足軽の頃から丹羽殿には声をかけていただいた、感謝しております」と語っている通り、従来から豊臣兄弟と長秀の間には意思の疎通が図られていたのでしょう。
長秀は、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉方として参陣。戦後にはその褒賞として、若狭に加え越前の一部と加賀二郡を与えられ、約120万石の大大名となりました。
長秀は、その2年後の1585年(天正13年)に死去します。死因については、後世の伝承に、寄生虫による病に苦しみ、病の苦痛を除くため自ら腹を切ったという話があります。また、胃癌だったとする説もあります。いずれにしても、長秀は秀吉が天下人となる前に、51年の生涯を終えたのでした。
結局、丹羽長秀は織田家中の双璧と称された柴田勝家のように、野心満々の秀吉と争う道を選びませんでした。いや、むしろ時勢を的確に判断し、秀吉に協力することによって、丹羽家を次代の長重へとつなげることに成功したのです。
このあたりに、長秀の「冷静沈着」な性格が、最も明確に表れているのではないでしょうか。
しかし、長秀の人生を語るうえで、もう一つ絶対に触れておきたいことがあります。それは、おそらく織田家宿老の中でも、とりわけ「汚れ役」を引き受けていたことです。
代表的なものだけでも、1573年(天正元年)には、朝倉義景を滅亡させた戦後処理として、義景の子・愛王丸、その母・小少将、そして義景の母・高徳院の処刑に関わったとされます。
また1581年(天正9年)には、越中国木舟城主の石黒成綱を近江で謀殺。さらに1582年(天正10年)の本能寺の変後には、大坂で信長の甥・津田信澄を攻め、これを滅ぼしました。
戦国の世では、どんなに繁栄を極めようとも、一瞬先は闇です。そのことを長秀は、誰よりもわきまえていたのかもしれません。
そして、その教訓は丹羽家を継いだ長重にも引き継がれていきます。長重の生涯は、父・長秀以上に波乱万丈なものとなります。
その数奇な運命については、[後編]でお話ししましょう。
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