『豊臣兄弟!』“いい人”の裏にあった汚れ役の真実…信長・秀吉の間を巧みに生きた丹羽長秀の生涯【前編】:2ページ目
戦場でも政務でも活躍した文武両道の人
皆さんは丹羽長秀に、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
一般的には、めったなことでは物事に動じない「冷静沈着」な人。そして、合戦・政治・築城まで何でもこなす「ユーティリティープレーヤー」。そのようなイメージではないでしょうか。
そして、この二つをあわせ持った長秀像こそ、『豊臣兄弟!』の「血気盛んな武将が多い家臣団の中で文武両道を実践」というプロフィールに一致するのです。
「武」という側面では、長秀は戦場において数々の戦功を挙げています。まずは信長麾下の将として参陣した代表的な戦いと、それに関連する事柄を以下に記しましょう。
●1552年(天文21年):萱津の戦い
●1555年(天文24年):岩倉城攻め
●1560年(永禄3年):桶狭間の戦い
※1563年(永禄6年):信長の養女・桂峯院を娶る
●1565年(永禄8年):美濃・猿啄城攻め
●1567年(永禄10年):美濃・稲葉山城攻め
●1568年(永禄11年):近江・箕作城攻め
●1569年(永禄12年):伊勢・大河内城攻め
●1570年(永禄13年):越前・金ケ崎城攻め、近江・姉川の戦い、近江・佐和山城攻め
※同年、佐和山城主となる
●1573年(天正元年):越前・一乗谷攻め
※同年、若狭一国の領有し国持ち大名となる
●1574年(天正2年):越前・一向宗征伐
●1575年(天正3年):長篠の戦い
※信長の奏請によって朝廷から「惟住(これずみ)」を賜姓
●1576年(天正4年):安土城築城の奉行を務める
●1577年(天正5年):紀州攻め、信貴山城の戦い
●1581年(天正9年):天正伊賀の乱
●1582年(天正10年):甲州征伐、四国討伐
このように、長秀は信長の命を受け、ほとんど休むことなく戦い続けているのです。そして、多くの戦いで織田軍の勝利に貢献しました。
こうして長秀は、織田家において筆頭家老・柴田勝家(山口馬木也)に次ぐ「二番家老」として、織田家の双璧とも称される存在になっていったのです。
