【豊臣兄弟!】「私を娶れ」勝家との祝言決意が意味するもの…広がるお市ロス、悲劇へ向かう誇り高き生涯:3ページ目
浅井長政との結婚は初婚じゃなかった?
お市と浅井長政の結婚は、兄・信長が足利義昭(尾上右近)を奉じて上洛の野心を果たすための政略結婚でした。
二人の結婚時期は永禄10年(1567年)秋から永禄11年(1568年)春にかけてとされ、この結婚によって、浅井長政と平井定武女(ひらい さだたけ娘)の縁談は破談となります。
平井定武は六角家臣であり、つまり浅井家は六角家よりも織田家との同盟を選ぶ意思を表明したのでした。
この時点で、お市は21~22歳と当時の初婚年齢としては高めです。そのためお市の生年が間違っているか、あるいはお市が初婚でなかった可能性を指摘する説もあります。
お市が生んだ浅井三姉妹
ともあれ長政と結婚したお市はいわゆる浅井三姉妹を出産しました。
- 長女・茶々(井上和):永禄12年(1569年)生
- 次女・初(田牧そら):永禄13年(1570年)生
- 三女・江(西川愛莉):天正元年(1573年)生
長政の子供は、他に嫡男の浅井万福丸(近江晃成)・次男の浅井万寿丸(まんじゅまる)・三男の浅井喜八郎(きはちろう)・四男の浅井円寿丸(えんじゅまる)・庶子の浅井七郎(しちろう)らがいたそうです。
茶々は後に秀吉の側室となり、初は京極高次(きょうごく たかつぐ)の正室、そして江は佐治一成(さじ かずなり)→羽柴秀勝(※)→徳川秀忠(家康嫡男)の正室となりました。
(※)信長五男で秀吉の養子となった秀勝(於次秀勝)ではなく、於次秀勝の死後に養子とした姉とも(宮澤エマ)と長尾弥助(上川周作)の三男・小吉秀勝です。
彼女たちもまた、母と同じく戦国乱世に翻弄されつつ、たくましく生き延びるのでした。
浅井滅亡により保護される
かくして夫や娘たちと幸せに暮らしていたであろうお市ですが、元亀元年(1570年)に兄の信長が朝倉義景(鶴見辰吾)を攻めると、状況は暗転します。
浅井長政は織田よりも朝倉との盟約を選び、信長らの背後を急襲しました。苦境に陥った信長は一目散に逃走し、殿軍を務めた秀吉の奮戦「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」は、多くの戦国ファンを魅了しています。
『朝倉家記』によると、お市は信長に浅井の裏切りを伝えるため、陣中見舞いとして小豆を入れた袋の両端を縛ったものを贈りました。信長は「袋の小豆≒挟み撃ちにされますから、お逃げ下さい」というメッセージを感じとって逸早く逃げ出したと言われますが、これは後世の創作でしょう。
窮地を脱した信長は姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を撃破し、天正元年(1573年)に長政を滅ぼします。
劇中では自害する長政をお市が介錯(斬首)するという斬新な展開で視聴者を驚愕させましたが、実際には小谷城から脱出し、実兄の織田信包に保護されました。
異説では叔父の織田信次(のぶつぐ)に保護されて尾張守山城(名古屋市守山区)へ移り住み、信次が天正2年(1574年)に長島一向一揆で討死すると、岐阜城へ移り住んで保護されたそうです。


