『豊臣兄弟!』お市と柴田勝家、自刃しての最期と「辞世の句」…運命を共にした2人の悲劇:3ページ目
『賤ヶ岳合戦記』原文
勝家切腹之事
廿三日(23日)午前に攻鼓(よせだいこ)なとを止(とめ)よはゝりて(呼ばわりて)曰(いわく)
昨日廿二日(22日)之夜山中にて御子息権六殿並(ならびに)玄番殿を生捕て参候(さんそうろう)あな痛はしき御事にて候と呼はりぬ
是より城中ひそまりて音もせす其後(そののち)に請取し門々を防き守る計(ばかり)にてしか〳〵(しかじか)鉄炮も打す(撃たず)夜に入とひとしく殿守(天守)之上にも下にも広間其外(そのほか)櫓々なとにも酒宴はしまり(始まり)けり
勝家盃に向つゝ一族他家の人々をよひ並へ被申(もうされ)けるはあの藤吉郎猿くわしや(冠者)か為にかく成果る(なりはつる)事無念之次第とうかう(どうこう)云(言う)に及れす(及ばれず)所詮酒呑て明日はうき世の隙をあけほのゝ雲と消なんとて文荷斎それ〳〵と有しかは(ありしかば)名酒の樽共あまた置ならへ種々の肴を出しつゝ酒宴こそ始めけれ
弥右衛門尉に申付何れ(いずれ)の櫓にも酒を呑候へ(のみそうらえ)と樽肴給りしかは(たまわりしかば)何方(いずかた)も酒宴の声々聞へけり小谷の御かたへ勝家さし給へは一二酌て(くんで)又返し侍りけるに匠作(しょうさく。修理=勝家)も数盃をかたふけ(傾け)文荷斎にさし給ふ小島若狭守い酒宴の半にも四方を見廻しつゝ其品(そのしな)露心(つゆこころ)に忘れさりしかは心を安んし(やすんじ)ゆるやかに酒をそ愛しける盃も度々廻りけれは漸(ようやく)終なんとす
勝家小谷の御方に被申(もうされ)けるは御身は信長公の御妹なれは出させ給へつゝかもおはしますましきと有けれは
小谷の御方涙くませ給ふて去秋の終岐阜より参かくまみへぬる事も前世の宿業今更驚くへきに非す爰(ここ)を出去ん(いでさらん)事思ひもよらす候
しかはあれと三人の息女をは出し侍れ(はべれ)よ父の菩提をも問せ又みつから(自ら)か跡をも吊れん(つがれん)為そかしとの給へ(のたまえ)は
いと安き事なりとて其(その)よし姫君に申させ給ふ姉君いやとよ母上共に同し道にゆかん物をとなき悲ひ給ふを文荷斎其わけも聞入す(ききいれず)御手を取引立三人出し奉りぬ
〈此小谷の方ハ浅井備前守の後至三女ハ則備前守長政の息女後秀吉の室淀の方ハ其一女也〉
夜半(よわ)の鐘声(しょうせい/かね)殿守に至りしかは御二所(おふたところ)深閨(しんけい)に入ぬ
彼(かの)四面楚歌の夜の夢楚王虞氏か深き恨もかくやと思ひ出にけり
何れも櫓々へ引入まとろまん(微睡まん)とすれははや郭公(ホトトギス)雲井に音つれ別れを催し侍るに
小谷御方
さらぬたにうちぬる程も夏の夜の別をさそふほとゝきすかな
勝家
夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあけよ山時鳥
節義に当て不変者なれは同し道に侍らんとて
文荷斎
契あれやすゝしき道にともなひて後の世迄も事へ(つかえ)仕(つかえ)ん
となん詠ありけれは匠作猛き心もそれならす見へてさらに袖をそ濡されける
小谷の御方其外(そのほか)数々の女房達念誦称名(ねんじゅしょうみょう)の声哀れをとゝめけり
若狭守文荷斎殿守の下に込草をつみ置(積み置き)兼ての用意残処もなくさた(沙汰)し置しかは心静に火をかけ半燃出るに及て雑人原(ぞうにんばら)をは出しさて勝家のおはしましける五重に上り下はかく仕まい申候御心静に沙汰し給へと申上しかは流石か(さすが)最期はよかりけり男女三十余人同し烟(けむり)と立上りぬ勝家の気象常にしも違ふ事それ〳〵に感をなし卯月廿四日申の刻(さるのこく)にそ終りにけり……
終わりに
今回は『賤ヶ岳合戦記』より、柴田勝家とお市の方たちの最期を紹介しました。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、勝家とお市の絆がどのように描かれるのでしょうか。山口馬木也と宮崎あおいの好演に期待しています!
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※参考文献:
- 志村有弘『賤ヶ岳合戦記』勉成出版、1999年5月
- 高柳光壽『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月



