世界遺産決定で脚光!日本初の巨大都城・藤原京を創り上げた知られざる女帝・持統天皇の凄絶な執念:2ページ目
官人への宅地支給と藤原宮遷都ー巨大都城が支えた律令政治ー
持統天皇は、国家体制の整備に邁進していきます。
持統4(690)年10月、持統天皇は皇子の中で高い地位にあった高市皇子に、藤原宮予定地を視察させました。
翌持統5(691)年には京域の地鎮が行われ、官人には官位に応じた宅地が支給されます。これは、朝廷に仕える役人を都の内部に住まわせ、早朝から宮中の政務に参加させるための都市政策でした。
持統6(692)年には、持統天皇自身が藤原京の道路を視察。持統8(694)年12月、朝廷は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移りました。
宮域は約900メートル四方で高い大垣に囲まれ、中央には天皇の居所である内裏、国家的な儀式を行う大極殿、官人が政務や儀式に参加する朝堂院が配置されました。
その東西には、行政実務を担う二官八省などの役所が集められています。
藤原宮の主要建物では、それまでの飛鳥の宮殿とは異なり、礎石の上に柱を立て、屋根を瓦で葺く中国風の建築が本格的に採用されました。
宮殿と役所を一か所に集めた構造は、現在の皇居、国会議事堂、中央官庁街を一体化したような政治空間だったと説明できます。
宮の周囲には、碁盤目状の道路で区切られた条坊制の市街地が広がっていました。現在の発掘成果によれば、その範囲は大和三山を取り込む一辺約5.3キロメートルに及びます。
京内には官人の住宅、寺院、工房などが置かれ、地方から納められた物資も運び込まれました。
都市の正確な範囲については研究史上さまざまな説が提示されてきましたが、近年は平城京を上回る広い京域が想定されています。
持統11(697)年8月、持統天皇は孫の軽皇子に譲位。文武天皇が即位しました。
史上初めて太上天皇(上皇)となった持統はその後も政治に関与。文武4(700)年には大宝律令の編纂が命じられました。
大宝元(701)年に律令が完成すると、全国の官職、行政区画、租税、刑罰などを体系化した国家制度が藤原京を中心に運用されていきます。
大宝2(702)年12月22日、持統上皇は崩御しました。宝算58。日本の国家整備に人生を捧げ、今日まで続く仕組みの根幹を築き上げた生涯でした。
その後、藤原京は和銅3(710)年の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代にわたって政治の中心となり、都市機能や仕組みは平城京や平安京へ受け継がれました。
藤原京は、持統天皇一人が思い描いて造った都ではありません。
天武天皇が始めた法制と都城の整備を受け継ぎ、官人に土地を与え、道路と官庁を整え、戸籍に把握された人々と全国の地域社会を結びつけた巨大な行政装置でした。
その地中に残る道路、排水路、建物、木簡は、日本が恒久的な都を持つ律令国家へ変わっていく過程を、今も静かに伝えているのです。
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