なぜ皇室典範に「譲位」はなかったのか?上皇陛下の生前退位で浮かび上がった明治政府の思惑:3ページ目
譲位を認めなかった明治政府の真意とは
このような『皇室典範』の規定を読者の皆さんは、どのように感じられるだろうか。
邪(よこしま)な考えを持つ権臣からの介入を防ぐため?皇位の正統性を保持するため?など、一見すると天皇家の皇統の安定を願ってのもののように思われる。
しかし、その真意は全く別のところにあった。
それは伊藤をはじめとする明治新政府の首脳たちが、「天皇が自ら譲位の意思を示すこと」を極めて警戒していた点にある。言い換えれば、「天皇が自らの意思を明確に示す」という行為こそ、彼らが最も恐れたものであったのだ。
大日本帝国憲法における天皇は、「国家の元首」として「統治権を総攬(そうらん)し、神聖にして侵すべからざる存在」とされた。また、戦後の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴」にして「日本国民統合の象徴」と規定された。
しかし日本の歴史を俯瞰すると、時の為政者が天皇の主体的な意思を抑え、自らに都合の良い「天皇像」を作りあげた時代は少なくない。いや、天皇が自ら政治的意思を発揮できた時代は、決して多くなかった。
そしてその姿が最も顕著に現れたのが、実は「天皇一世一元」制を確立した明治新政府であるといえよう。
その背景には、明治新政府の権力構造があった。伊藤をはじめ明治政府を主導した人々は、もともと低い家格から成り上がった人物が多かった。
幕末期、彼らは薩摩・佐賀・土佐などの有力大名のもと、その手足として動く立場にあった。したがって、新政府が成立した段階では、本来なら天皇を頂点とし、その下に有力大名や公家が要職を占める構造になるはずであったのだ。
しかしいざ新政府が始動すると、中央集権体制の確立を目指す「版籍奉還・廃藩置県」によって、旧藩主との主従関係が断ち切られ、その力関係は大きく変容した。
そのとき新たに「盟主」として仰がれたのが天皇である。ただし、それはあくまでも政治的象徴=彼らが言うところの「玉」としてであった。
明治維新の指導者たちにとって、天皇は新政府の正統性を示し、国家統合を進める上で欠かせない存在であった。そのため、天皇を政治権力の象徴として位置づける制度設計が進められたのである。こうした考え方のもと、天皇自身の意思による譲位制度は、皇室典範には盛り込まれなかったのである。
皇室典範に譲位規定が設けられなかった背景には、伊藤博文ら明治政府の制度設計が色濃く反映されていた。その思想は戦後に制定された現行皇室典範にも引き継がれていくことになる。
もし、多くの国民が心から天皇制と皇室の安泰を願うのであれば、今後において『皇室典範』がどのように再構築されていくのか、注意深く見守っていかなければならないだろう。
※参考文献
笠原英彦著 『皇室典範―明治の起草の攻防から現代の皇位継承問題まで』 中公新書刊


