『豊臣兄弟!』で描かれる「安土饗応」事件が本能寺の変の引き金か?史実では何が起きていた:3ページ目
史料によって内容が異なる「安土饗応」事件
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、この響宴については
「家康の饗応の準備について、信長はある密室において明智光秀と語っていた。
けれども、信長は元来、逆上しやすく自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質だった。
信長の好みに合わぬ要件で、明智光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめて1〜2度足蹴にしたそうだ。」
というような内容が記されているのですが、これも「人々が語ったところによると」という伝聞になっています。確かなことは不明で足蹴にした理由も不明です。
もちろん、確かな一次史料の裏付けはなく、信長がこの時点で秀吉になにかしらの疑いを抱いたという確証もありません。
『信長公記』の「家康公穴山梅雪御上洛之事」では京都・堺にて珍物を調えおびただしき結構」と、「珍しい食べ物を数多く揃えていて、大変結構だった」とあります。
17日には、羽柴秀吉の援軍として、光秀・忠興・摂津衆を先陣として派遣する旨を命じ、直ちに暇をとらせたため、光秀、安土より坂本へ帰城し出陣の準備をします。
これは、家康饗応の不手際の罰としてという説と、特に不手際もなく信長が光秀に悪感情を抱くこともなかったためという説と、両方の見解に分かれているようです。
『信長が家康の武勲を讃えた「本膳料理」』
「安土町文芸の郷振興事業団」による「安土天主信長の館」では『信長が家康の武勲を讃えた「本膳料理」』展示があります。(公式HPより)
〜1582年(天正10年)5月、織田信長が明智光秀に饗応(接待役)を命じ、武田勝頼討伐に功をなした徳川家康や穴山梅雪を安土城にもてなした時の饗応メニューを展示(※館内での展示は、五月十五日の「おちつき膳」「晩御膳」のみ)〜
と説明があり、膳の演出は、
「当時のおもてなしは料理が一度に並べられるので、配膳される際の華やかさが強調されました。さらに膳の演出として様々な飾りをします。」とのこと。
料理を盛る皿の下の台を金や銀で塗り、絵をほどこし、料理にさされた串「亀足(きそく)」にも金色がほどこされ、盛りつけた料理がこぼれることを防ぐ「甲立(かわたて)」は金箔の紙を皿に敷くという豪華なもの。
また、「から花」という造花を用いて華やかさを演出しています。
これらの飾りは、中世の様式を踏襲した「本膳料理」の特徴だそうです。
また、食材は『三鳥五魚』。
三鳥はツル・キジ・ガンのことですが、そのほかにも多くの野鳥・水鳥が用いられていたようです。
五魚はコイ・タイ・スズキ・カレイ・フカのことで、中世の料理書『四條流庖丁書』ではコイはワサビ酢、タイはショウガ酢、スズキならタデ酢など魚の種類により使う調味料まで規定されていたそうです。
これだけの食材はもちろん、使用する膳や器の準備まで全て準備するのは、交通機関は現代のように交通機関が発達していなかった戦国時代、かなり大変だったでしょう。
この「安土天主信長の館」での説明には「支度が行き過ぎだ」と叱責されたという記述もあるそうです。
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