『豊臣兄弟!』で描かれる「安土饗応」事件が本能寺の変の引き金か?史実では何が起きていた:2ページ目
イベントの手配は得意で信長に絶賛された光秀なのに
『川角太閤記』を一部抜粋すると、
〜明智日向守所御宿に仰せつけられ候ところに、御馳走のあまりにや、肴など用意の次第御覧なさるべきために、御見舞候ところに、夏故、用意のなまざかな、殊の外、さかり申し候故、門へ御入りなされ候とひとしく、風につれ、悪しき匂ひ吹き来たり候。〜
意訳すると「光秀は接待の準備に力を入れて、料理や肴の容易を見回っていたところ、夏だったために生肴が痛んで、風に乗って強い匂いを放ってしまった。」という内容。
そして、「この悪臭は、屋敷(家康の宿泊先だった光秀の屋敷)の門まで漂い、信長はすぐに気がつき調理場に向い、これでは家康公をもてなせるわけがないと激怒。家康の宿は変更になった」そうです。
さらに、「面目を失った光秀は、食器や魚を載せた台、そのほか用意していた料理や酒肴を残らず堀へ投げ捨てさせたため、腐った魚の悪臭が安土の町中へ吹き散らされた」とのこと。かなり、リアルな描写ではありますが。
『川角太閤記』は、羽柴秀次(秀吉の甥)の家臣に仕えたとされる川角三郎右衛門が執筆したもので、同世代の伝聞をもとに書いたもの。
比較的、信憑性が高いとされるも、執筆目的は太閤秀吉の栄光の歴史を描き出すもので、この接待役解任話も、光秀謀反をよりドラマチックに描くための創作と考えられています。
光秀は、行事の準備が得意だったようで、その細やかで配慮が行き届いた支度ぶりは信長も認め誉め讃えています。
例えば、天正9年(1581)の正月、安土城下で催された『左義長』という小正月の火祭り行事では「準備が見事、思いもよらない趣向までこらし、細やかで感心した」と信長は褒め称えています。
また、京都で行った派手な軍事パレード『京都御馬揃え』の準備を行ったときも光秀が仕切り、信長はその手腕を誉めています。参加武将は約700名、見物人は約20万人も集ったイベントを成功に導いたのですから、プロデューサー的な才能もあったのではないでしょうか。
そんな光秀が、3日間の饗応の支度で食べ物を腐らせた上に、料理も道具も堀に投げ捨てるとは考えづらいもの。ましてや、「光秀が毒を入れた(もしくは誰かに支持したなど)」としたら、一番に疑われてしまいますよね。
