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『豊臣兄弟!』本能寺前夜の死亡フラグ…信澄の黒幕説は本当か?史実を交え第26回の伏線など考察

『豊臣兄弟!』本能寺前夜の死亡フラグ…信澄の黒幕説は本当か?史実を交え第26回の伏線など考察:2ページ目

秀吉の鳥取攻めとは?

劇中で少しだけ言及された「鳥取攻め」とは、天正9年(1581年)の7月から10月にかけて、毛利の武将・吉川経家(きっかわ つねいえ)が立て籠もった鳥取城(鳥取県鳥取市)に対する兵糧攻めなどです。

秀吉はあらかじめ敵領内に商人を送り込み、兵糧を買い占めることで敵を干上がらせました。完全に孤立した城内では餓死した者の人肉を切り取っては奪い合い、子は親を食い、弟が兄を貪ったと伝わります。

この「鳥取の飢え殺し(かつえごろし)」は以前に行われた「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」に匹敵する地獄絵図を描いた挙げ句、吉川経家の切腹で幕を下ろしました。

経家が「自分の首級と引き換えに、城兵の命を助けてほしい」と申し出たところ、秀吉はその死を惜しんで重臣だけ切腹すればよい旨を伝えます。

しかし経家の決意は揺るがず、秀吉は仕方なくその意向を信長に伝え、切腹させても構わないとの許可が出ました。

そして10月25日に経家は自害して果て、秀吉はその死を惜しんで「哀れなる義士かな」と男泣きしたそうです。実はそのようなことがありました。

秀吉の養子・羽柴秀勝とは?

嫡男がいない秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(柊木陽太)は、永禄11年(1568年)に信長の四男(※)として誕生しています。

(※)劇中および公式サイトでは五男とされていますが、信長の五男は織田勝長(幼名:御坊丸)ではないのでしょうか?何か新発見があったのかもしれませんね。

幼名は次もしくは於次丸(おつぎまる)、秀吉の子供には同姓同名の羽柴秀勝が3人(※)いたため、便宜上「於次丸秀勝」と呼ばれてきました。

(※)実子とされる石松丸秀勝は既に死亡、於次丸の死後に養子とした小吉秀勝(姉ともの次男)の3人です。

次の備中攻めで初陣を果たし、天正10年(1582年)3月の赤旗城攻めで武功を立てたほか、4月から始まる備中高松城攻めにも参陣します。

いっぽう政治面ではすでに活躍しており、秀吉が出陣して長浜に不在の際は、自身の名前で文書を発給していました。もちろん補佐役はついていたでしょうが、末頼もしい後継ぎですね。

その後も山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなど歴戦しますが、若くして亡くなってしまいました。

本作ではこれらの活躍がどのように描かれるのか、信長ゆずりの英雄ぶりに期待しましょう。

3ページ目 「よき侍になりおったわ」信長のお墨付き

 

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