少数精鋭で大軍に逆転勝利!戦国武将・毛利元就が初陣で“西の桶狭間”を起こした有田中井手の合戦とは
血で血を洗う戦国乱世、少数精鋭をもって大軍を奇襲し、みごと大将首を獲って逆転勝利……というケースは、実のところあまり多くはありません。
そもそも合戦で総大将を討ち取る・総大将が討死するケース自体がまれで、大抵は趨勢が決すると退却したり自害したりと言った結末を迎えました。
だからこそ桶狭間の合戦(永禄3・1560年)や沖田畷の合戦(天正12・1584年)などが際立って後世に伝えられるのでしょう。
今回は後に中国地方の覇者となる毛利元就(もうりもとなり)が、初陣を飾った有田中井手の合戦(ありたなかいで。広島県北広島町)を紹介。後世「西の桶狭間」と伝えられた激闘の様子をたどってみたいと思います。
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前哨戦で逆転の好機を見抜く
時は永正14年(1517年)10月3日、安芸国内で勢力を振るっていた武田元繁(たけだ もとしげ)が、国人衆およそ5千の大軍を率いて有田城へ攻め込みました。
元繁は安芸国に北面する出雲・石見両国(島根県)の大大名・尼子氏を後ろ盾に、安芸国から大内氏の影響下にある諸勢力(毛利氏・吉川氏ら)を一掃しようと画策していたのです。
ちょうど大内氏は他事に追われて京都にいたため、この隙を逃さず挙兵したのでしょう。
有田城には小田信忠(おだ のぶただ)が300ほどの寡兵で立て籠もっており、大軍に恐れをなして降伏を申し出ました。
しかし元繁はいきり立って降伏を認めず、軍神の血祭りに上げんとばかり有田城を攻め立てたのです。
最早これまでか……しかし「窮鼠猫を咬む」とはよく言ったもので、逃げ道を絶たれてしまったのであれば、死に物狂いで活路を求めるよりありません。小田信忠らは懸命に抗戦し、意外に持ちこたえてみせたのでした。
なかなか有田城が攻略できない10月21日、元繁は盟友の熊谷元直(くまがい もとなお)に命じて毛利領へ出撃させます。
元直率いる600ばかりの軍勢は、民家へ火を放つなど毛利方を挑発しました。これを見た元就は精鋭150騎を率いて出撃、約4倍にもなる敵を散々に追い散らしたのです。
敵は大軍に驕って、一人々々が油断しきった烏合の衆と化していました。これを見抜いた元就は、この好機を逃すまじと吉川氏へ援軍要請の早馬を飛ばします。
吉川氏からは宮庄経友(みやのしょう つねとも)率いる300騎の援軍が駆けつけ、元就率いる700騎と合わせて1千騎が決戦へと繰り出しました。


