『豊臣兄弟!』ズタズタに引き裂かれたプライド…秀吉(池松壮亮)が犯した失敗と「播磨大誤算」の原因:3ページ目
なぜ別所長治は織田を裏切ったのか
では、なぜ長治は離反へと向かったのだろうか。その理由は、賀相が秀吉に出仕した場面に端的に描かれていた。
そこで賀相に一枚の書面が渡される。そこには宿原城・衣笠城・毘沙門城など12の城の名が書かれていた。「これらの城は我らにとって守りの要でございます。これらを打ち壊せと申されるのか」と言う賀相に、秀吉は「案ずることはござらん。播磨が一つになればこれらの城は無用になりまする」と答えるのである。
このような城の打ち壊しを「城割」「破城」といった。そもそも城というものは「戦争のために臨時的に構えるもの」であったため、城郭が築き始められた平安から鎌倉時代は、戦争が終われば役目を終えた城は壊される、という考え方があった。
しかしその後、城そのものが支配者クラスの象徴的な建築物になると、統治拠点として維持する考え方が広まり、城を壊すという発想は次第に薄れていった。
だが戦国時代になると、攻撃側が敵の城を落とした後に破却する「城割」が頻繁に行われるようになる。つまり、勝者がその地域の支配を安定させるためには、城は壊したほうが統治しやすいからだ。
この破壊行為を推進したのが信長だった。侵攻した若狭・越前・伊勢・伊賀などで国中の城や砦の破壊を進めていった。だから、秀吉の別所家に対する「城割」の命令は、信長政権の方針を反映したものであった可能性が高い。
しかし、別所家は信長に敗北して服属したわけではなく、むしろ自発的に協力した同盟者に近い立場だった。それにもかかわらず、秀吉は三木城の支城群の破却を求めたのである。
これは別所家にとって屈辱以外の何ものでもなかっただろう。信長に協力したにもかかわらず、防衛網の解体を命じられたのである。支城破却を命じた後に官兵衛が「長治様と重棟殿なら分かってもらえるはず」と追い打ちをかけるが、この命令は到底承諾できないものであった。
そして長治はプライドをズタズタにされ、信長への不信感は募る一方であったと考えられるのである。
こうして1578年(天正6年)2月、長治は三木城に立て籠もる。それに呼応するように同じく「城割」に反発する播磨の国衆や豪族たちが反織田に立ち上がった。
そしてこの混乱は丹波にも飛び火し、八木城の波多野氏が反乱、さらに三木城攻めに参加していた荒木村重も離脱し、拠点の有岡城に籠城するという事態を引き起こした。
播磨の「城割」に端を発する「播磨大誤算」は、三木城が落城する1580年(天正8)年まで足掛け3年続き、信長の中国戦線を大きく停滞させ、天下統一事業にも急ブレーキをかけることになったのである。
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※参考文献
福田千鶴著 『城割の作法』吉川弘文館





