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『豊臣兄弟!』ズタズタに引き裂かれたプライド…秀吉(池松壮亮)が犯した失敗と「播磨大誤算」の原因

『豊臣兄弟!』ズタズタに引き裂かれたプライド…秀吉(池松壮亮)が犯した失敗と「播磨大誤算」の原因:2ページ目

別所長治が抱いた名門武家の誇り

織田に味方すると決めた播磨の国衆たちは、次々と姫路城の秀吉のもとに出仕した。その中に別所長治の叔父で後見役の別所賀相(よしちか/田中美央)がいた。

本来ならば長治が挨拶に来るべきなのに、どちらかと言えば毛利寄りと見られていた賀相が現れたのだ。これに対し官兵衛は不審に思い「長治殿はいかがいたした」と問いただすも、賀相は「主は急な病にて出仕できない」と答えた。

この後、三木城で家臣相手に槍の稽古を行う長治が登場し、賀相の弟で同じく後見役の叔父・別所重棟(しげむね/忍成修吾)に対し、
「織田に付くことに決めたが、別所家当主が成り上がり者の秀吉に挨拶に行く必要はないと言う賀相の顔を立てた」と述べている。

別所家は播磨国の半国近くを勢力下に置いており、その所領高は16万石近くに達していた。当時の秀吉の所領は近江長浜12万石前後であり、規模だけを見れば長治のほうが上回っている。

しかし長治や賀相には、それ以上に播磨守護の赤松氏の血を引くという名門意識が強かったのだ。それゆえに彼らの目には、秀吉をして成り上がり者と映ったのは当然のことだった。

だが史実では1570年(永禄13年)1月、長治は重棟とともに上洛し信長に出仕している。これは秀吉が小寺官兵衛と誼を通じた時期よりも早く、この時点で別所家はすでに信長の配下になっていたのだ。また秀吉の播磨入りの直前には、長治は信長の雑賀攻めにも従ったことが『信長公記』に記されている。

つまり信長としては、5千人程度の軍勢を動員可能な播磨最大の勢力を誇る別所家を確保し、万全を期したうえで秀吉を送り込んだのだ。しかし、長治は突如として織田家を裏切り三木城に籠城したのである。

3ページ目 なぜ別所長治は織田を裏切ったのか

 

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