【豊臣兄弟!】次回「風雲!竹田城」を予習。小一郎(仲野太賀)が総大将デビューで覚醒?激闘の顛末を紹介:2ページ目
小一郎はなぜ竹田城を放棄した?
……則(すなわち)、普請(ふしん)申付け、木下小一郎(羽柴長秀)城代として入れ置かれ候キ(そうらいき)……
※太田牛一『信長公記』より。
【意訳】竹田城を占領した小一郎は、すぐに竹田城の修繕工事に着手した。そして小一郎は城代として竹田城の守備を任される。
さて、見事に竹田城を攻め落とした小一郎は、自身の初勝利に浮かれている暇はありません。
いつ敵が反撃して来ないとも限らないため、小一郎は激戦で損傷した竹田城の修繕工事(普請)を実施しています。
『信長公記』では竹田城の戦いについて詳しい記述がないものの、城郭が損傷するくらいには激しく戦ったことは、想像に難くありません。
しばらく竹田城を守備した小一郎は、天正7年(1579年)5月に信長から「明智光秀(要潤)への援軍として丹波国(京都府中部)へ攻め込め」と命じられました。
小一郎は任務を遂行・完了しますが、竹田城へは戻らず秀吉のいる播磨国(兵庫県南部)へ合流します。
あれ?せっかく占領して、およそ1年半も維持していたのに、放棄してしまっていいのでしょうか。
これが戦略的意図による行動(あえて放棄した)か、あるいは秀吉のいる播磨戦線を優先した苦渋の決断なのかはわかりません。
もちろん毛利方がこれを見逃すはずもなく、再び太田垣輝延が竹田城を占領しました。しかしこのまま引き下がる小一郎ではありません。
およそ1年が過ぎた天正8年(1580年)4月、小一郎は6,400の軍勢を率いて竹田城へ進攻し、今度は難なく再占領したようです。
勝手知ったる竹田城、と言ったところでしょうか。先ほどの一時放棄は、もしかしたら「いつでも奪還できるから、一度仕切り直そう」くらいの感覚だったのかもしれませんね。
