『豊臣兄弟!』「秀吉、お前だけは許さない!」本能寺の変で運命が暗転した信長三男・織田信孝の壮絶な最期:3ページ目
秀吉だけは絶対に許すことはできない!
さて、信孝初登場の回想はここまでとし、本題の信孝が自尽に至る経緯に戻りましょう。
今回の『豊臣兄弟!』で描かれたのは、1577年(天正5年)のことと推測されます。ここから1582年(天正10年)までの5年間は、信孝の人生は順風満帆でした。
しかし、繰り返しになりますが、父信長が横死した本能寺の変が彼の人生を一変させます。
本能寺の変が起きた時、信孝は大坂の住吉浜にいました。四国の長宗我部元親 (演:磯部寛之)を討つための四国討伐軍の総司令官に任命されていたのです。
副将として、丹羽長秀と織田信澄がいましたが、信長横死という混乱の中で信孝と長秀は光秀との共謀を疑い信澄を殺害してしまいます。
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そして四国討伐軍は、中国から急遽引き返してきた秀吉軍に吸収されました。山崎の合戦では信長遺児という立場上、信孝が総大将を務めますが、結局は光秀討伐の功を秀吉に奪われてしまいます。
とはいえ、清州会議で秀吉に主導権を奪われながらも、美濃国一国と岐阜城を与えられることになり、秀吉が織田家の後継者と定めた三法師(信忠の嫡男)の後見役を務めることになりました。
そうしたなか、秀吉は丹羽長秀や池田恒興(演:堀井新太)ら織田重臣たちを取り込み、信長から天下人を継いだかのような行動を取り始めます。
この動きを見ていた信孝は、反秀吉勢力の筆頭である勝家と結びますが、秀吉に岐阜城を包囲され降伏してしまいます。そこからの信孝の人生は、凋落の一途をたどるのです。
そして、1583年(天正11年)、勝家が2万の兵を率いて北近江に進出し、木之本で秀吉軍と対峙すると、再起を目指し挙兵、岐阜城を攻略しました。
だがこの賤ケ岳の戦いで勝家が敗れ、居城の北の庄で自害すると、もはや信孝には秀吉に対抗する力は残っていませんでした。
岐阜城を開城して降伏した信孝は、長良川を下って尾張国知多郡に奔り、大御堂寺に退きます。そしてここで、無念を死と遂げるのです。一説には、兄の信雄が死を命じたとも言われています。
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」
この信孝の辞世の短歌の出典は、江戸時代以降の軍記物のため、信憑性が薄いという説もあります
しかし、農民という身分から大身の大名へ取り立ててくれた恩人である織田家をないがしろにする秀吉に対して、「こいつだけは許すことはできない!」と、死の直前まで怒りが収まらなかったのは間違いないでしょう。
『天正記』に「将軍の息男にして、智勇人に超えたり」と評された信孝。そんな彼だからこそ、無念の思いは大きかったともいえるでしょう。
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※参考文献
柴裕之編 『戦国武将列伝 織田編』 戎光詳出版







