【豊臣兄弟!】信長に降伏するも改易・切腹…足利義昭に忠義を尽くした三淵藤英(味方良介)の悲劇的な最期:2ページ目
信長に降伏
しかし義昭と信長が対立すると、異母兄弟の藤孝が信長に与したことを知って激怒。藤孝が拠る勝竜寺城(京都府長岡京市)の襲撃を計画するも失敗します。武略にはあまり恵まれなかったのでしょうか。
元亀4年(1573年)7月3日に義昭が信長打倒の兵を挙げるとこれに従い、二条御所(京都市上京区)の防衛を任されました。義昭自身は槇島城(京都府宇治市)に立て籠もります。
信長何するものぞと意気込んだものの、いざ織田の大軍に包囲されると、友軍たちは全員降伏。7月12日には柴田勝家(山口馬木也)の説得によって降伏を余儀なくされました。
降伏後も伏見城(京都市伏見区)に立て籠もり、なおも抵抗を試みた藤英ですが、肝心の義昭が立て籠もる槇島城が信長の大軍に攻め落とされてしまいます。
主君がいなくては戦いに大義もなく、やむなく藤英も再び信長に降伏。織田家臣として仕えることになったのでした。
天正元年(1573年)に三好三人衆の残党である石成友通(阿部亮平)を討ち取るなど武功を挙げた藤英ですが、天正2年(1574年)にいきなり改易(所領全没収)されてしまいます。
そして明智光秀(要潤)の元へ身柄を送られ、7月6日に嫡男の三淵秋豪(あきひで)ともども切腹させられてしまったのでした。
