【豊臣兄弟!】お市が長政を介錯した悲劇の舞台、“あの小谷城”へ…聖地巡りしたい巨大な山城の見どころ:2ページ目
長政を偲ぶ。「小谷城」の代表的な見どころとは
天正元年(1573)、小谷城は織田軍に囲まれ、信長は不破光治、木下秀吉を使者として送り降伏を勧めるも、長政は断り続け最終勧告も決裂。
秀吉は、古谷城では京極丸を占拠し、小丸にいた浅井久政と本丸にいた浅井長政の連絡を断つ役割を果たしました
浅井長政は、お市の方と三姉妹を織田軍に引き渡した後、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城しました。
浅井家の滅亡後、小谷城は秀吉の手に渡るものの、琵琶湖畔の今浜(現在の長浜)に新たに長浜城を築いたため、小谷城は廃城となりました。
廃城といえども、現在でも小谷山全体に壮大な遺構が残されており、昭和12年(1937)には国の史跡に指定。戦国ファン、城郭ファン、登山ファン、大河ファンなど多くの人が訪れています。
見どころはたくさんあるので、代表的な場所を簡単にご紹介しましょう。
1)番所跡
「本丸跡まで約0.4km」の木の看板を過ぎると最初に目に入るのは『番所跡』。遠方から見えず、間道も皆ここに集まる要所に位置し、登城者の検問をした所です。戦時には城門の防衛戦の一端をになる重要な警備の拠点でした。『虎御前山展望台』から見える虎御前山は、小谷城の戦いの際、織田軍の本陣となった場所です。
2)御茶屋跡
番所跡のすぐ上にある、主郭部最先端の曲輪(※)跡で、西側の隅には庭があったと思われます。『御茶屋跡』という風雅な名前には似つかない軍事施設です。
※曲輪:城を構成するための一区画で、 石垣や堀などで囲われた部分で。曲輪を多く作ることによって、簡単に落城させないようにしてた。
3)御馬屋跡
『御馬屋跡』は三方を高い土塁で囲まれた曲輪で、本丸の前で守るためにありました。『馬洗池跡』は、湧水ではないものの、往時は年中水が絶えなかったそう。敵がその上の桜馬場に登るのを防ぐ水堀だったと考えられています。馬洗池跡の周辺には石垣の跡が見られます。
4)首据石
御馬屋曲輪跡から少し登ったところに、ある『首据石』。天文2年(1533)、初代・浅井亮政が六角氏との戦の際、家臣の今井秀信の内通を知り亮政は秀信を呼び出して謀殺。その首をこの大岩に置いて晒したとされています。
5)赤尾邸跡と浅井長政公自刃之地の碑
御馬屋跡からその上の桜馬場跡に登る途中に、東にそれる脇道があり、入口に『右 赤尾美作守屋敷址』と刻まれた石碑があります。
赤尾美作守は、浅井氏の重臣・赤尾清綱のことで、家臣の邸では最も本松に近く、浅井長政が最期を迎えた場所と伝わります。『浅井長政公自刃之地』と刻まれた碑があります。



