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『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[前編]

『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[前編]:2ページ目

戦国期の足利将軍はなぜ弱かったのか

室町時代は1338年(建武3年)から1573年(元亀4年)まで、実に235年間続きました。幕府政権には、源氏・北条氏による鎌倉幕府、足利氏の室町幕府、そして徳川氏の江戸幕府があります。

鎌倉幕府は約150年、江戸幕府は約260年。年数だけを見ると、日本史上における長期安定政権といわれる江戸幕府と比べても決して短命ではありません。ところが「軍事力」という観点に立つと、その実態は大きく異なっていました。

武家政権において、配下の大名・武士たちを統制する決め手は、言うまでもなく武力、すなわち軍事力です。室町幕府が決定的に弱かった理由は、将軍家の直轄領がきわめて少なかった点にあります。直轄領が少なければ、当然ながら動員できる兵数も限られてしまいます。

足利将軍家の所領は、概ね山城一国程度といわれます。さまざまな考え方がありますが、よくいわれるように1石について正規兵を300人と計算しますと、その兵力は、せいぜい7,000人くらいでしょうか。

しかも戦国期に入ると、将軍家といえども山城国全体を掌握することは難しく、実際に動かせる兵はさらに限られていたはずです。

また、義昭の時代ともなれば、常時動員できたのは、京都在番の奉行衆を中心とする直臣たちのみ。人数にして数百人規模に過ぎなかったと考えられます。

一方、江戸幕府は約400万石の直轄領を有し、「旗本八万騎」と称される12万人にものぼる膨大な直属軍を抱えていました。

これでは、義昭の言うように「出さぬではない、出せぬのじゃ」と言うしかなかったのです。

3ページ目 それでも足利将軍は武家の棟梁だった

 

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