朝ドラ「風、薫る」勝海舟(片岡鶴太郎)と医療の意外な関係…日本初の看護学校を支えた知られざる功績:2ページ目
公職を辞し、病院開設の資金援助を行う
海舟の政府の一員としての日々は、突如として終わりを迎えます。
明治8(1875)年4月、海舟は立法府の役職である元老院議官に移動。しかし海舟は同年11月に台湾出兵への抗議として同職を辞職しています。
政府の公職を辞することは、政治的権力を失うことにも直結していました。しかし海舟は政治的闘争とは距離を置き、むしろ自らの道を模索していきます。
下野後、海舟はある病院の設立に深く関与することとなりました。
明治15(1882)年、かつて海軍省の部下であった戸塚文海と高木兼寛が芝の天光院に有志共立東京病院を開設。同院は貧しい患者に治療を施す場所でした。
当時の海舟は徳川家の財産を管理する立場です。
二人の事業に共鳴した海舟は、病院開設のための資金援助を実施。払い下げられた愛宕下の旧東京府病院跡の改修が行われ、明治17(1884)年には同地に病院移転を果たします。
翌明治18(1885)年、日本初の看護学校である看護婦教育所が同院に付設される形で設立。アメリカ人宣教師・リードらによる看護教育が始まります。
ここでは朝ドラ「風、薫る」でも描かれた、陸軍卿・大山巌の夫人である大山捨松ら夫人慈善会のバザーによる後援もありました。
明治20(1887)年、同院は総裁となった昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、病院は東京慈恵医院へと改称されました。
翌明治21(1888)年、看護婦教育所から第1回卒業生5名が卒業。日本初となるトレインドナースが社会に送り出されました。
海舟の資金援助は、近代医学を支え多くの人材を輩出することとなったのです。
海舟は自分自身で看護制度を築き上げた人ではありません。しかし資金援助と、かつての部下たちを間接的にも取り立て、その業績に貢献していました。
日本医療において、海舟は表の主役ではありませんが、背後から土台を支えた重要人物であったことは確かなのです。
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