『豊臣兄弟!』朝倉義景(鶴見辰吾)は本当に愚将だったのか?上洛しなかった“意外に堅実”な理由:3ページ目
上洛しなかった理由3:一乗谷の繁栄
朝倉氏の本拠地である一乗谷の遺跡を見ると、何とも辺鄙(へんぴ)で、義景の「山奥に引きこもって好機を逸した愚将」というイメージを掻き立てるかも知れません。
しかしそれは結果の後づけに過ぎず、当時の一乗谷は洗練された武家文化が根づいく北陸有数の一大都市でした。
その片鱗として、遺跡からは複数の庭園跡やヴェネチアングラスが出土しています。
ヴェネチアングラスとはイタリア式のガラス製品で、南蛮文化の象徴的存在として珍重されていました。
よく信長がワインなんか飲んでるイメージですが、義景もきっと楽しんだのではないでしょうか。
もちろんガラス容器くらいで何だと言えなくもありませんが、少なくとも南蛮からの舶来品の届くルートがあり、それを開拓した国力の裏づけが感じとれます。
更に義景は薩摩国の島津義久(しまづ よしひさ)と交流し、琉球国や中国大陸との交易ルート開拓も図っていました。
永禄10年(1567年)に義景は島津義久に対して交易を仲介してくれた謝礼を贈っています。
そもそも越前は古くから大国(※)に分類されていました。豊かな越前平野は北陸における交通の要衝であり、代々国力を蓄え続けてきたのでした。
(※)国力の高さ順に大国・上国・中国・下国の四等級。
わざわざリスクをとって上洛などせずとも、充分豊かに暮らせたのです。
終わりに
- 胡散臭い義昭を軽々に担がなかった
- 北に加賀一向一揆の脅威があった
- そもそも一乗谷が豊かで、リスクをおかす必要がなかった
こうした理由から上洛をためらった義景は、極めて現実的な判断を下したと言えるでしょう。
浮ついた野望に踊らされず、地に足をつけた冷静な視点を持っていたとも言えます。
※それが往々にして腰抜け扱いされてしまうことも少なくありませんが……。
しかしそんな義景の常識を覆したのが、信長の存在でした。
そこまで見通せなかったから愚将だと断じるのは、結果を知っているがゆえの傲慢ではないでしょうか。
恐らくNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではひたすら愚将・凡将として描かれるものと思われますが、義景の意外な一面も知ってもらえたらと思います。
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※参考文献:
- 辻川達雄『本願寺と一向一揆』誠文堂新光社、1986年2月
- 松原信之 編『朝倉義景のすべて』新人物往来社、2003年7月



