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朝ドラ「風、薫る」語学を武器に幕末・明治を動かした男…実在人物・清水卯三郎(坂東彌十郎)の生涯

朝ドラ「風、薫る」語学を武器に幕末・明治を動かした男…実在人物・清水卯三郎(坂東彌十郎)の生涯:2ページ目

薩英戦争の仲介に奔走

安政6(1859)年、には開港地となった横浜に在留。親戚が営む、外国人相手の大豆商店を手伝いました。

外国人を相手にする上で、特に痛感したのが英語の必要性です。

鎖国時代はオランダ語が海外との交渉で必要でしたが、幕末ともなると英語の重要性は飛躍的に高まっていました。

卯三郎は通詞の立石得十郎から英語を師事。立石の養子で甥の斧次郎や薩摩藩の松木弘安(後の外務卿・寺島宗則)とも交友関係を広げました。

翌1860年(万延元年)には、英語辞典『ゑんぎりしことば』を発刊。広く後進に英語を学ぶ機会を広げようとしました。

特筆すべきは、アメリカ総領事ハリスの書記官ポートマンから英語を習ったことです。

当時は尊皇攘夷運動が勃興しつつあった時代です。西洋の学問を習い、外国人と関わることは過激な尊皇攘夷派に命を狙われる危険性さえありました。

それでも卯三郎は語学への探究を深め、やがてそれは時代の変わり目にも立ち会う機会を与えます。

文久3(1863)年、薩英戦争が勃発。生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件)の報復として起きた戦争でした。

大名行列の習慣を知らないイギリス人を無礼討ち、江戸時代に起きた「生麦事件」とは?

1862(文久2)年8月、「生麦事件(なまむぎじけん)」が起こります。3人のイギリス人がひとりの婦人に付き添って東海道を海で進み、横浜の生麦村を通過しようとしていました。このとき、不幸にも江戸から京都…

この戦争は一藩のみならず、日本とイギリスとの関係を危うくするものです。当然、卯三郎は危機感を抱きます。

そこで卯三郎は、人脈を活かして活躍を見せました。

幕府の許可を得た卯三郎は、イギリス側の通訳として軍艦に乗船。和平に尽力しつつ、拘束されていた薩摩五代才助(友厚)や、親友の松木弘安を保護して、親戚や自宅に匿っています。

薩摩とイギリスの和平締結のために奔走し、のちの近代日本を支える人物たちの命を救った瞬間でした。

1人の商人が国際紛争の解決を実現した、という事実は、卯三郎のその後を決定づけていきます。

3ページ目 日本人商人では唯一、パリ万国博覧会に参加

 

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