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朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯

朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯:3ページ目

ルックスも語学もダンスも秀でた捨松は「鹿鳴館の華」に

鹿鳴館では連日夜会や舞踏会が催され、明治の高官たちは諸外国の外交官と接点を持つために参加していたのですが、日本人の不慣れな「鹿鳴館外交」は、諸外国からばかにされていたとか。

身長も低くプロポーション的にも燕尾服やドレスが似合わない日本の高官やその夫人が慣れないダンスをする様子を「滑稽なもの」としていたという話もあります。

けれども、そこで日本人外交の面目躍如をしたのが捨松です。

当時の女性としては長身で美しく、語学も堪能、子供のときから身につけているダンスのステップも抜群、ドレス姿も板についているという、新しい日本人女性を感じさせる輝き。

捨松は、またたくまに注目を集め『鹿鳴館の華』と称賛されるようになったのです。

日本初の看護婦学校の設立に尽力

捨松の功績はそれだけではありません。

東京の有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医学大学附属病院)を見学したとき、看護婦という存在がなく雑用係の男性が数名する程度だったことに衝撃を受けます。

そこで、元海軍軍医総監で病院長であった高木兼寛に、患者のため女性の社会進出のため、日本に看護婦養成学校が必要だと提言します。

そして、資金集めとして明治17年(1884)に「鹿鳴館慈善会」を行い、3日間で大収益を上げて共立病院に寄付をするという偉業をなしとげました。

そのおかげで、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所(のちの慈恵看護専門学校」が設立したのです。

明治20年(1887)には「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となったり寄付金集めなどを行う一方、看護婦の資格を活かし日本赤十字社で戦傷者の看護や包帯作りなどを行いました。

また、アメリカの新聞に寄稿し日本の苦しい財政状況を訴えて義援金を集めます。集まったお金はいろいろな慈善事業に生かされたのでした。

明治33年(1900)に親友の津田梅子が女子英学塾(のちの津田塾大学)を設立した際には、捨松も瓜生繁子も全面的に支援。自分たちが理想とする女子教育の場を作ったのでした。

大正5年に巌が75歳で死去した後は公の場にはでなかった捨松ですが、梅子が病に倒れたために英学塾の後任探しに尽力するも、当時世界的に流行していたスペイン風邪により58歳で亡くなりました。

4ページ目 学問を自分の武器に自身の意思で生き抜いた捨松

 

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