朝ドラ『風、薫る』学問を武器に!日本初の看護婦学校を作った実在人物、大山捨松(多部未華子)の激動の生涯:2ページ目
優秀な成績で大学を卒業し看護婦免許も取得
当時、捨松とともに留学した女学生は全部で5人でしたが、2人は病気を理由に帰国し、残ったのは3人になってしまいました。捨松と、のちに日本初のピアニストととなる永井しげ(瓜生繁子)、津田塾大学の創設者、津田梅子でした。
この3人は自分たちを「ザ・トリオ」と呼び、異文化にもすぐに溶け込み親友となり、帰国後もその関係は続くことになったのです。
捨松は、牧師レナード・ベーコン宅に身を寄せ、英語を取得しつつ勉強し続け、全寮制の女子大学ヴァッサー大学に進学。
明治15年(1882)には、優秀な成績で大学を卒業、アメリカの赤十字社に関心を寄せていたために、ニューヘイブン病院で実地看護を学び、看護婦免許を取得し日本に帰国しました。
けれども、帰国子女であれば教職に就けると期待していたものの政府から仕事を紹介してもらえず、日本語は「小学生程度」に衰え、大学でも一般教養を学んだだけで、特に専門知識を持たない捨松は、日本の状況に失望。
さらに、帰国して22歳になっていたので、「行き遅れの娘」といわれうんざりしていたようです。
そんなある意味八方塞がりだった捨松は、吉井友実(日本の宮内官、官僚)という人物の紹介で、陸軍中将であった18歳年上の大山巌に出会います。大山は吉井の長女と結婚し三人の娘をもうけるも妻に先立たれていました。
大山は語学堪能ではあったものの、この時代の外交といえば「夫人同伴の夜会や舞踏会」が中心だったのです。そのため、吉井はアメリカの名門大学を成績優秀者として卒業したうえに、外国語も堪能だった捨松を、大山の再婚相手として目をつけていたそうです。
西洋文化が身についた捨松に一目惚れした大山巌
自他共に「西洋かぶれ」を称する大山は、洗練され語学堪能で美しい捨松に一目惚れ。さっそく長兄を通じて結婚を申し込みますが、山川家はもと会津藩士。大山は宿敵・薩摩隼人なので、即座に断ります。
ところが大山が粘りに粘ったので、仕方なく、兄は捨松の意思を聞くことにしました。「どういう人かわからないと返事もできない」ということで、試しにデートをすることになった捨松と大山巌。
このとき、薩摩弁VS会津弁でお互いに何をしゃべっているのか意思疎通ができなかったため、フランス語で話すようになり会話がはずんだという、エピソードがあります。
気さくな大山の人柄が気に入った捨松は結婚を決意。明治16年(1883)に婚儀が行われ、その一ヶ月後に完成した鹿鳴館にて披露宴が行われました。
当時、人前で女性が、ましてや「花嫁」が社交的に振る舞うことはほぼないような時代でした。けれども、エレガントに堂々と振る舞う新しい女性像を感じさせる捨松に、みな魅了されたようです。
3ページ目 ルックスも語学もダンスも秀でた捨松は「鹿鳴館の華」に

