『豊臣兄弟!』“悪役” 松永久秀(竹中直人)は本当に東大寺大仏を焼いたのか?史料から見えた真実:2ページ目
東大寺の記録は「松永軍の放火」と記す
現在考えられている出火原因は、主に三説ある。
1.松永久秀軍の放火
2.三好三人衆軍の失火
3.松永軍内にいたキリシタンによる放火
現在、有力視されているのは三人衆の失火説である。しかし、夜間奇襲を行ったのは久秀側であり、混乱の中の出火であった以上、完全な無関係とも言い切れない。
この件に関して、国際日本文化研究センターの磯田道史教授は、自ら発見した1567年(永禄10年)年の大仏炎上を記した東大寺側の資料から、三人衆敗走後の出火とみる。
そこには次のようにある。
「十月十日夜十二時ごろ、松永弾正方が三手をなして大仏殿を夜襲。軍兵を多く討ち捕り、西の回廊に火を懸け、寺じゅうの老若が身命を捨て闘争の場に出て水をくみ上げ、瓦をくずして消火したが、西風がしきりに吹き猛火が大仏殿に懸り即時炎上」
つまり、東大寺側は「松永軍の放火」と見ていたようだ。ともあれ、東大寺は合戦中に危険を顧みず消火活動を行った。しかし、「大仏のお首は落ち、後にあった」。そして、「炎上の翌日、老若消魂」して皆途方に暮れたという。
この衝撃は、東大寺だけに留まらなかった。
「大仏も焼けた。狂へ。ただ遊べ。浮世は不定の身を持ちて」という刹那的な小唄が織田家中で流行したと伝わるほど、当時の人々に大きな衝撃を与えたのである。
結論から言えば、出火の瞬間を見た者はおらず、真犯人は断定できない。それでも当時から、犯人は久秀と目されていた。皮肉にも、この戦いの勝者が彼だったからである。
大仏焼失直後、久秀の使者が東大寺を訪れる。寺側は当然、謝罪と考えた。だが、伝えられた言葉は驚くべきものだった。
「寺中の金銀米銭、悉く借り申す」
そして東大寺の財宝は残らず徴発された。東大寺は久秀を「積悪の主。前代未聞」と記す。この戦禍と久秀の所業は、すでに衰えつつあった東大寺の勢いに大きな打撃を与えた。
こうして、「大仏を焼いた男」という罪名は、松永久秀に刻みつけられていったのである。
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※参考文献
磯田道史著 『日本史を暴く』 中公新書





