【豊臣兄弟!】共闘から決裂へ…織田信長と戦い続けた足利義昭(尾上右近)、執念の生涯[前編]:3ページ目
信玄の西上作戦でついに信長と決別する
しかし、その関係にも終わりが訪れます。1572年(元亀3年)10月、武田信玄(演:高嶋政伸)が甲府を発し、西上作戦を開始したのです。
当時、織田家と武田家は友好関係にあり、信長の嫡男・信忠と信玄の娘・松姫の婚約も成立していました。それにもかかわらず、なぜ信玄は信長と対決する道を選んだのでしょうか。
大きな要因として考えられるのが、1571年(元亀2年)の比叡山焼き討ちです。天台座主・覚恕法親王は甲斐へ逃れ、信玄に比叡山の再興を訴えました。信玄は信長のこの行為を「天魔の所業」と激しく非難しています。
さらに、信長と同盟関係の徳川家康(演:松下洸平)との軍事的対立、そして浅井・朝倉・本願寺といった反信長勢力の要請も重なり、信玄は挙兵に踏み切ったとみても間違いないでしょう。
このとき、義昭がどこまで反信長の動きに暗躍していたかは議論の余地があります。むしろ彼は、信長の実力を誰よりも理解していたからこそ、慎重だったとも考えられるのです。
しかし、情勢は一変します。三方ヶ原の戦いで、信玄は家康を圧倒的に打ち破りました。この勝利は、反信長勢力に大きな希望を与え、同時に義昭の認識を変えたと考えられます。
ここに至り、義昭はついに信長と決別する決意を固めたのでしょう。しばしば「義昭は信長の傀儡だった」と言われます。しかし実態はそうではありません。両者はあくまで相互依存の関係であり、その均衡が崩れたとき、協力関係もまた終わりを迎えたのです。
義昭は諸大名に信長討伐を呼びかけます。これに対し信長は、義昭の要求をすべて受け入れるという異例の譲歩を示しました。これは、当時の信長がいかに追い詰められていたかを物語っています。
しかし同時に、信長は「十七条の異見書」を公表し、義昭の非を世に訴えました。そこには、「自分はこんなにも忠誠を尽くしたにもかかわらず、義昭はそれを顧みなかった」という主張が記されています。
これは、将軍と対立してもなお自分は「逆臣ではない」と世間に示すための政治的宣伝でもありました。
こうして、義昭と信長の決裂は決定的なものとなっていったのです。
それでは[前編]はここまで。[後編]では京都を追われた足利義昭をお話しします。お楽しみに……。
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※参考文献
山田康弘著『足利将軍家たちの戦国乱世』中央新書




