【豊臣兄弟!】直亡き後、小一郎は誰と結ばれた?妻となる慶(吉岡里帆)と側室・光秀尼の生涯:2ページ目
秀長の側室・光秀尼お藤とはどんな女性?
天文21年(1552年)生〜元和8年(1623年)没
大和の国人・秋篠伝左衛門(あきしの でんざゑもん)と鷹山頼円女(たかやま らいえん娘)の間に生まれたと言われます。
『奈良名所八重桜』によると、はじめは比丘尼(尼僧)として法華寺で修行していたところ、一目惚れした小一郎によって「お持ち帰り」されてしまいました。
一夜をともにしてから帰されたものの、不犯の戒律を破ったことから寺を追い出されてしまいます。
仕方なく、伯母の心慶尼(しんぎょうに)が住職を務める弘文院(興福院)に身を寄せたものの、小一郎の子を懐妊したためここにもいられなくなってしまいます。
行くあてのない光秀尼は縁家の菊岡宗政(きくおか むねまさ)に保護され、娘を出産しました。
この娘の名前は不明わかりませんが、一説にはおきく(大善院)とも言われます。
※娘が二人いる(おきくは次女)説もあるそうです。
いっぽう小一郎はそんな事とも露知らずのんきに……もとい、兄の天下獲りを支えるべく、激務の日々を過ごしていました。
が、自分の娘が生まれたと聞いて、慌てて光秀尼を迎え入れます。還俗させてお藤という名を与え、自分の側室としたのでした。
やがて天正19年(1591年)に小一郎が先立つと、お藤は出家して光秀尼と号して再び弘文院(興福院)に入ります。
異説として、元からお藤だったのが、小一郎の死後に出家した……つまり順番が逆だったと言うのです。
【説1】尼(光秀尼)→還俗(お藤)→尼(再び光秀尼)
【説2】俗人(お藤)→尼(光秀尼)
後に婿の豊臣秀保(妻は実名不詳の長女またはおきく)が亡くなり、大和大納言家は断絶してしまいました。
光秀尼は秀吉から200石の知行地を与えられます(寺に寄進された説もあり)。
元和6年(1620年)には亡くなった伯母・心慶に代わって弘文院(興福院)の住職となり、元和8年(1622年)2月8日に世を去ったのでした。