戦後の混乱で約20人もの自称・天皇が出現…最も注目を集めた「熊沢天皇」とGHQ利用、孤独な末路:2ページ目
GHQの利用
熊沢家はもともと愛知県の資産家で、本家・分家が複数存在し、家紋も統一されていませんでした。
中には徳川家の「葵」や、天皇家の「十六弁の菊」に似た紋を使う家もあり、家系の由来は極めて曖昧だったのです。
熊沢寛道は分家の出身でしたが、本家の当主・熊沢大然に養子入りし、そこで「南朝の正統後継者」という思想を受け継いでいます。
養父の大然は明治期に「南朝の直系子孫」として皇統認定を求め、請願書を提出したものの黙殺されたという経緯がありました。
しかし大然は諦めず、寛道に「明治天皇が南朝の正統を認めた」という根拠のない言葉を残します。寛道はこれを“真実”として受け止め、戦後の混乱期に自らを天皇と名乗るようになったのです。
興味深いのは、熊沢寛道が登場したタイミングが、GHQの対日政策と一致している点です。
敗戦直後、GHQは天皇制の扱いを慎重に探っており、皇室の権威を揺さぶるために熊沢寛道を利用したという説があります。
米軍機関紙やアメリカの大手メディアが彼を大きく取り上げたのは、偶然とは言い切れません。
しかしその後、昭和天皇が全国を巡幸し、国民から熱烈に迎えられる姿を見たGHQは方針を転換します。天皇制は日本統治に不可欠であると判断し、天皇制維持を決定したのです。
これにより、熊沢の主張は完全に退けられました。
