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『豊臣兄弟!』あれは不穏な伏線!?藤吉郎に容赦ない稽古をつけた城戸小左衛門の正体と今後の展開

『豊臣兄弟!』あれは不穏な伏線!?藤吉郎に容赦ない稽古をつけた城戸小左衛門の正体と今後の展開:2ページ目

「六人衆」の顔ぶれは?

せっかくなので、信長に選抜された「六人衆」について、それぞれの顔ぶれも紹介したいと思います。

浅野長勝(あさの ながかつ)

生年不詳~永禄11年(1568年)9月12日または天正3年(1575年)9月10日没

通称は又右衛門。寧々(浜辺美波)の養父で、後に藤吉郎の舅となりました。やがて藤吉郎が出世すると立場が逆転して与力となり、永禄11年(1568年)に討死したとも天正3年(1575年)に世を去ったとも言われます。

太田牛一(おおた ぎゅういち/うしかつ)

大永7年(1527年)生~慶長18年(1613年)3月没

通称は又介(又助とも)、後に和泉守の官職を授かりました。元は僧侶であったが還俗し、柴田勝家(山口馬木也)の足軽として仕えます。弓の腕前が認められて六人衆に選抜されました。信長の一代記『信長公記』の作者としても有名です。

堀田孫七(ほった まごしち)

生没年不詳

堀田孫七と言えば堀田一継(かずつぐ)を指しますが、世代が違いすぎるため、父親の堀田一縄(かずつな)ではないかと考えられます。

『寛政重脩諸家譜』によると、通称は彌角または矢部とされていますが、孫七の通称を代々襲名していたのかも知れません。

伊東祐之(いとう すけゆき)

天文2年(1533年)生~天正13年(1585年)8月没

通称は清蔵、七蔵。萱津の合戦(天文21・1552年)では兜をかぶるのももどかしく、編笠をかぶって武勇を奮ったことから、信長に「編笠清蔵」とあだ名されました。

その後も赤母衣衆に選抜されて活躍し、信長から長の字を拝領して伊東長久と改名します。後に藤吉郎の配下となって大いに活躍したのでした。

堀田左内(ほった さない)

生没年不詳

尾張国津島地域を支配し、信長政権の主力を担った土豪集団・津島衆の四家七党(大橋家・岡本家・恒川家・山川家/堀田党・平野党・服部党・鈴木党・真野党・光賀党・河村党)に属する堀田党の一員です。

あまり詳しいことは分かっていませんが、後に信長が築いた安土城の瓦奉行を務めた記録がありました。

3ページ目 「豊臣兄弟!」における城戸小左衛門はどう描かれる?

 

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