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【豊臣兄弟!】で近々描かれる「桶狭間の戦い」少数の織田軍が奇襲で勝利…がほぼ創作といえる理由

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否定されている電撃的な奇襲作戦による勝利

では、なぜこの時期に義元は尾張侵攻に踏み切ったのでしょうか。その背景には、尾張国が米の生産に適した肥沃な土地であったことが挙げられます。

実際、今川家が領有する駿河・遠江・三河の三国を合わせても、ようやく尾張一国を上回る程度の石高であったのです。さらに尾張には、熱田・甚目寺・津島といった市場や港町が存在し、信長の父・信秀の頃から経済活動もきわめて活発でした。

義元にとって、尾張統一を果たしたばかりで体制が未だ不安定とみられる信長を討つ好機は、この時をおいて他になかったと考えられます。そのため兵を動かした、というのが実相に近い見方でしょう。

したがって、映画やドラマで描かれるような「3万近い今川勢を、信長がわずか2~3千の兵で破った」、しかも「電撃的な奇襲作戦によって勝利した」という図式は、現在ではほぼ否定されています。

余談ながら、「桶狭間の戦い」が信長の少数兵力による奇襲で成功したとする説は、明治以降になって唱えられるようになりました。思想家・徳富蘇峰らの研究を通じて、日本人のメンタリティーに訴えかける「小よく大を制す」という観念が強調されるようになったためです。

当時の日本は、大国・清との戦争である日清戦争を経て、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉に直面し、さらに大国ロシアとの戦争へと突き進んでいく時代にありました。そうした国際情勢のなかで、「小よく大を制す」の象徴ともいえる「桶狭間の戦い」は、時代の要請にかなう格好のモデルであったのです。

3ページ目 桶狭間は、諜報・謀略を駆使する信長戦術の原点

 

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