「べらぼう」歌麿の肩組みにネット歓喜!大崎が毒饅頭を食べた理由、グニャ富とは?史実を元に解説:4ページ目
勝川春朗がもたらした?遠近法と陰影の技法
チーム写楽が順調に稼働する中、ようやく見つかった勝川春朗(くっきー!)。相も変わらず個性的な言動が目立つ中、蔦重と歌麿に新たなヒントをもたらしました。
「ド~ン、キュッ、キュッ!」
蘭画は手前がド~ンで、奥がキュッキュ!手前に出ているものが大きく、奥のものは窄まって見える……つまり遠近法が表現されていると言いたいのでしょう。
このド~ン、キュッ、キュッがもたらす極端な印象こそ、源内らしい蘭画風役者絵を引き立てるヒントとなったのです。
加えて蔦重は蘭画に縁取り線がないことに着目。それなら対象物の輪郭線を色つきにし、影をつけることで立体的な表現を可能としました。
遠近法と陰影の技術は水墨画でも既に使われているように思いますが、ともあれこの気づきが、写楽の絵をより活き活きと動かすことになるのです。
「これが、写楽……」「こりゃ、見入っちまいますよねぇ」
写楽って、すげぇなぁ……みんなの個性や技術を結晶させた一枚の「写楽」。今回最もテンションが高ぶった方も多いのではないでしょうか。
こういう創作の喜びを、もっともっと感じさせて欲しいですね!
「東洲斎」写楽の名付け親は松平定信?
「名に東洲斎を加えよ」「写楽は東洲、江戸っ子。これは江戸の誉れとしたい!画号は東洲斎写楽とせよ」
相も変わらず、エッラそうに指図する松平定信でした。東洲とは江戸の東にある中洲だから、八丁堀か築地あたり。いかにも江戸っ子が住んでいそうな場所と言えるでしょうか。
でも、本当は黄表紙などの通俗文化が大好きな定信が心から喜んでいることだけは伝わりました。
さて、本作では定信が「東洲斎」写楽の名付け親となった設定となっていますが、実際はどうだったのでしょうか。
「東洲斎」写楽の画号が生まれた由来は諸説あり、特に有力なのが写楽の正体とされる斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべゑ)の名前からとったという説です。
斎藤十郎兵衛のうち、斎藤十の部分を並べ替えると……。
- 藤(とう)→東(とう)
- 十(じゅう)→洲(しゅう、じゅう)
- 斎(さい)→斎(さい)
となるのだとか。斎藤十郎兵衛は八丁堀に住んでいたので、二重の意味を持っていたと言えるでしょう。

