【べらぼう】ダサい?江戸時代の人はアノ髪型(月代)をどう思っていた?その語源と歴史:2ページ目
月代の歴史
月代の習慣は平安時代末期からあったようで、例えば九条兼実『玉葉』にはこんな記述があります。
……其鬢不正、月代太見苦、面色殊損……
※『玉葉』安元2年(1176年)7月8日条
【意訳】その鬢(びん。側頭部の髪)は乱れ、(剃らずにのびっ放しの)月代は甚だ見苦しく、顔色を殊更に損なっていた。
また『太平記』にもこんな記述がありました。
……片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし……
※『太平記』巻五
【意訳】山伏に変装していた片岡八郎と矢田彦七が「あら、暑いなぁ」と頭巾を脱いだところ、月代を剃った跡で武士だとバレてしまった。
ちなみに当時は日常的に月代を剃っていた訳ではなく、戦闘時に限って剃り上げ、平時に戻ると再び総髪に伸ばしていたそうです。
やがて戦国時代になると戦闘が頻発したため、日常的に月代を剃るようになりました。
琉球(沖縄県)の古謡集『おもろさうし』には、薩摩国(鹿児島県)から攻め込んできた島津の将兵を「まへぼじ(前坊主)」とからかう歌詞があります。
……天下大いにみだれ、信玄・謙信などその外諸大将、合戦数年打続きたるゆえ常に月代そる事絶えずして、その後太平の世になりてもその時の風儀やまずして、今日に至るまで月代そる事になりたるなり……
※伊勢貞丈『貞丈雑記』
戦国乱世の気風は天下泰平の江戸時代に入っても重んじられ、凛々しい髪型として成人男性の間に広がりました。
公家や一定の職業(※)など、戦闘員でない者は前髪を残す総髪とする以外は、武士も農民も町人も職人も月代を剃るのが一般的になったのです。
(※)山伏、学者、医師、人相見、物乞い、浪人など。
要するに、みんな「カッコいい」から月代を剃り、それがいつしか成人男性の身だしなみとなったのでした。
月代は剃り方や広さによって個性を演出するファッションとなり、時代が下るにつれて幅が狭くなっていったそうです。
ちなみに頭髪が薄くなると剃っても頭皮が青くならず、一目でハゲと判ってしまいます。そのため、中には剃った部分を藍などで青く見せる者も現れました。
かくして月代を剃る習慣は、明治4年(1871年)8月9日に断髪令(正式名称:散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム)が発せられるまで続いたのです。
