大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長(仲野太賀)が「天下一の補佐役」と称されていた理由【前編】:2ページ目
豊臣軍の軍事司令官として100万石の大大名になる
このように、秀吉と同様に農民、あるいはそれに近い下層階級に生まれたと考えられる秀長ですが、ここからはドラマを楽しむ際の参考程度に、簡単ではありますがその生涯をたどっておきましょう。
秀吉が織田家臣団の中で頭角を現すと、小一郎こと秀長も信長に出仕するようになります。この時期についても定かではありませんが、1573年(天正元年)、北近江の浅井長政を滅ぼした功績で秀吉が長浜城主となると、秀長が城代を務めたことは史実として確実です。
その後、秀吉が中国方面軍の軍団長となると、秀長もその麾下の重要な部将として播磨・但馬を転戦しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が倒れると、秀吉本隊が畿内へ急行するのを支えるため、秀長は分隊を率いて鳥取城へ入ります。
秀吉が山崎の合戦で明智光秀に勝利できた背景には、「中国大返し」の奇策だけでなく、秀長が背後を固め、毛利勢などの追撃を抑えた活躍も大きかったとされています。そして、翌年の小牧・長久手の戦いの頃から、「羽柴秀長」と名乗るようになりました。
1585年(天正13年)には、豊臣軍の副将格として紀州を制圧し、この功により64万石を与えられて和歌山城を築城。同年の四国攻めでは総大将を務め、長宗我部元親を降伏させました。その後、紀伊国・和泉国に加えて大和国を加増され、合計100万石を領する大大名として郡山城に入城。さらに従二位大納言に叙任され、「大和大納言・豊臣秀長」と称されるようになります。

