「蔦重とは、終わりにします」
喜多川歌麿(染谷将太)が西村屋万次郎(中村莟玉)に告げたこの一言。永年にわたる蔦重(横浜流星)への想いを断ち切り、新たな舞台へ旅立とうとする決意が表れていました。
これまで歌麿の想いによって、何とか保たれていた二人の関係。それが度重なる蔦重の無神経さによって、とうとう断たれてしまったのです。
なぜこんな事になったのか、今回は蔦重に欠けていた側面から考察して行きましょう。
蔦重には、リスペクトがない
これまで蔦重のクリエイター(浮世絵師や戯作者など)に対する態度を見ていると、彼らを「作品が売れるか否か」で評価しているように感じられます。
※歌麿に対しては若干の特別感はあったものの、次第に単なる「お抱え絵師」と同じになっていきました。
もちろん経営者として必須の感覚ではあるものの、蔦重の場合はそれがいささか行き過ぎているのではないでしょうか。
これまで多くの成功経験を重ねてきたことが驕りとなり、
「俺がお前に『売れる』というお墨付きを与えたぞ。嬉しいだろ?いい話だろ?感謝してバンバン書いて(描いて)くれ」
とでも言わんばかりの態度が時おり垣間見えました。
確かに駆け出しのクリエイターであれば、それで奮起する者も少なくありません。実際の蔦重も、そうやって多くのクリエイターを奮い立たせて来たのだと思います。
しかし本作における歌麿のように、売れる・儲かることよりも純粋に創作を大切にしたい者にしてみれば、何も響かないでしょう。
「必要なのはお前の名前(ブランド)であって、絵自体は弟子が描いたものでいい」
などと言われてしまったら、百年の恋も醒めようというものです。
自分の絵でなくてもいいなら、もはや自分である必要はないし、力を貸したくもない。かくして歌麿は、リスペクトのない蔦重を見捨てたのでした。
